モニタと紙面

何書こうかなあ、と思いつつ日記猿人の新作リストを見ていたら、こちらの方の日記(6月15日分)に目がとまった。

とりりんさんの述べるように、確かにコンピュータのことをちっとも理解していない人もたくさんいて、僕の指導教授なんかもそうなので困ることもいろいろなのだけれども(笑)、朝日新聞などの新聞社のサイトを見ていれば紙媒体はなくてもいいかというと、必ずしもそうは言えないのではないか、と思う。

僕の部屋の机の一番下の引き出しには、1995年1月18日の朝日新聞朝刊(東京版14版)がとってある。真っ赤に燃える神戸市長田区の火災を撮った写真の上に、「死者1681人 不明1017人」という文字が紙面いっぱいに書かれている。この二つの情報だけでも、この地震がいかに大きなものであったのかを伝えてくれる。

けれども情報というのは必ずしもそれだけではない。見出しがどれくらいの大きさなのか、写真がどのくらいの大きさなのかということにも、新聞社の価値判断が入っている。文章によってわかる内容だけでなく、紙面構成によっても、何が重要なニュースであるのか、あるいは何が重要なニュースであるとその新聞社が判断しているのか、を読みとることができる。上記の朝刊では、テレビ版があるはずのところが全面写真になっていて、それからも、この地震が特別な事態であると(新聞社が判断していると)いうメタ情報を読みとることができる。

とりりんさんは「無駄な先入観」と表現しているけれども、では我々の持っている価値基準が確かなのかと言えば、全くそんなことはない。「神の国」発言だって、国政のシステムという視点から見れば、首相の発言ではあるけれども、通常だったら国民とはほとんど無縁の会合での発言に過ぎないわけで、首相の発言として問題だという認識があったからこそ、あそこまで大きく取り上げられることになったものである。


では次に、「雑多な情報も入る」ということについて考えてみたい。

で、いきなり逆転するようなんだけれども、一日のニュースを入手する、という点だけに絞って考えれば、紙媒体はなくても構わない。実際僕は新聞取っていないし(笑)。速報性に関しては言わずもがなである。普段僕はわざわざWeb版の家庭欄などまで毎日見てはいないから、確かに雑多な情報が入らないと言えば入らないけれども、時々まとめてみていれば済む話である。

けれども、「雑多な情報も入る」のは今日一日のニュースに関してだけである。過去の記事を調べる場合には普通、何らかの目的があってみるわけだから、Web上、あるいはローカルでダウンロードしたデータでは、検索をかけることになる。

例えば「兵庫県南部地震」というキーワードで検索をかけると、膨大な数の記事がヒットするだろう。また「政府」というキーワードで絞り込み検索をかければ、それでもそこそこの量の記事がヒットするだろう。Webに限らずコンピュータ検索では、何らかの目的がある場合にキーワードでテキストを検索させることによって、人が一々紙をめくるのよりも圧倒的に速く正確に該当個所を探し出すことができる。

けれども、コンピュータはその日に何があったのか、といった漠然としたことを掴むのにはあまり向いていない。もちろん、1995年1月18日の記事、という指定をすれば検索できるのは確かだが、一覧性はない。自分の調べものの目的にあまり関係なさそうな記事など、普通クリックして開いてみたりはしないだろう。

これは図書館のコンピュータ目録でも同じことで、目的の本を探すのにはコンピュータ目録は威力を発揮するが、「日本史で、荘園とか調べたいなあ」という場合には、むしろ日本史の書架に直接行って、手当たり次第にパラパラと本をめくってみたほうが、有用な本に出会うことが多い。

これはたぶん紙媒体の特性だと思うのだが、モニタで見る情報には一覧性がない。したがって、自分の意志でアクセスしたページ以外のページというのを見ることはないし、見出し以上の情報を知ろうと思えばそのページにアクセスするだろう。斜め読み、ということはコンピュータではできないのだ。逆に、紙媒体には一覧性があるからこそ、斜め読みなどで雑多な情報も入ってくる余地がある。

たぶん本当に忙しくて、しかもニュースが必要な人ならば、Webよりもむしろ一覧性のある新聞の方が、一日のニュースを素早く掴むことができるだろう。僕が新聞を取っていないのは、時間があるのと単にお金がないからだ。


これはちょっと違うけれど、漫画は紙媒体でないと全然ダメだ。以前、松本零士銀河鉄道999がどこかのサイトで連載しているということを知って、行ってみたんだけれども、画像が表示されるまで待つのにイライラして、読むのを止めてしまった。漫画は1ページに費やす時間がテキストに比べ短いので、どんどんページを繰っていかないとテンポが狂ってしまう。紙の方がずっとましのように思った。動画ならWeb上でもありかな。


でも、「アジア経済論の先生」が言いたかったのは、こういうことでもないような気がする。

たぶん、『朝日新聞』や『日本経済新聞』から単にニュースを得るということではなく、一つの情報体としていったいどういうことを伝えているのかを知るために、新聞を取ってもいいんじゃないか、と言っているように僕は思える。言い方を変えれば、『朝日新聞』なり『日本経済新聞』なりの世界の切り取り方を知るために、Webではなく紙媒体で新聞を取ってもいいんじゃないか、と言っているような気がする。

新聞とはちょっと違うのだけれど、僕の扱っている古文書なんかも、いざ調べようとするとかなりの量にのぼる。普通報告をまとめたり論文を書くときには、その中から必要な史料だけを取り上げて提示し、検討する。

今ではテキストのデータベースもCD-ROMとして少しずつ出てきて、『吾妻鏡』や『平安遺文』はわざわざ最初のページから繰っていかなくても、コンピュータで必要な語彙のある該当個所を正確に探し当てることができる。

けれども、当座の自分の研究に必要のない部分は全く読まなくていいのかというと、そういうわけにはいかない。該当個所の史料を全体として読んだことにはならない。必要な個々の情報(ここでは必要な語彙が書かれている部分)といったものとは別に、その史料が全体としてどういう情報を伝えているのか、といったメタ情報も重要になってくる。いやむしろ、重要なのはメタ情報であるとも言える。そういったメタ情報のさらなる積み重ねによって、個々の文章のより精確な史料解釈が実現されていく。

まあ僕にそれができているかと言えばちっともできていないんですけれど(汗)。


たぶんそれは新聞でも同じで、個々の新聞に書かれている個々のニュースを知ることだけが重要なのではなく、個々のニュースを個々の新聞がどのように取り上げているか、といったメタ情報を積み重ねていくこともそれに劣らず重要だと思う。むしろ個々のニュースを正確に記憶しておくだけならコンピュータの方が遥かに信頼できるわけだから、メタ情報の蓄積の方が今後はより重要になってくると思う。僕は、Web上のニュースはやはり一覧性に欠けるという点で、メタ情報の蓄積には必ずしも役に立つわけではないと感じている。雑多な情報が入るということは、必ずしも個々のニュースそのものだけを指しているわけではなくて、雑多な情報によって構成される『朝日新聞』『日本経済新聞』といった情報体そのもののメタ情報が蓄積されるということを指しているんじゃないだろうか。

「アジア経済論の先生」は、たぶん学生に対してメタ情報の蓄積を勧めるために、新聞を取るのもいいんじゃないか、といったような気が僕はしています。


ちなみに僕は新聞は取ってないけれど、朝日新聞の夕刊は外に出たときには駅で買っている。文化欄は朝日新聞のサイトには掲載されないからだ。どうしてだろう、やっぱり著作権の問題なのかなあ。