敵討ち

日の丸・君が代無期懲役などが、猿人では話題になっているようだ。国旗国歌については別稿で何か言おうと思っているので、無期懲役についてちょっと。

といっても、あまりニュースをよく見たり読んだ訳ではないのだが、前にその事件の特集を見たことがあったのでその記憶をもとに。というか、刑罰論なので事件の具体的なことはあまり関係がないのだけれども。

彼を死刑にしてもらいたいという被害者の遺族の方の言い分は、確かに自分のこととして考えてみるならば、自分だって同じように感じるのかも知れない。けれども、それくらい憤りを感じているということと、それをマスコミの前で披瀝することとでは、ちょっとばかし、というかかなり、意味が変わってくるのではないだろうか。

現在の日本では、敵討ちなどの私刑(死刑ではなくて)は禁止されている。刑罰を与える権限は公権力に独占されている。そして公権力は、個人の敵討ちとしてではなく、社会が犯罪者へ与える制裁と矯正として刑罰を科する。

被害者の夫であり親である彼の言っていることは、しかし、言ってみれば公権力に敵討ちを要求しているようなものではないだろうか。失った家族への無念さという点では、安易に僕たちが想像し共感することを許さないくらいの憤りを遺族が感じていることは確かだ。けれども、敵討ちは許されない。殺されたからといって相手を殺していいかといえば、殺してはいけないのだ。

マスコミでの記者会見の場で、犯罪への憤りとしてではなく、司法への不服として死刑を求めるというのは、やはり敵討ちだと思うし、それは許されないことだと思うのである。

その一方で、被害者や、殺人の場合被害者の遺族へのケアというものは、精神的にも経済的にももっと充実させていく必要があると思う。敵討ちで無念を晴らすのではないやり方を考えるべきだろう。

死刑の存在を前提にした無期懲役のあり方もちょっと考え直すべきなのではないだろうか。それこそ、例えば懲役250年なんていうのも場合によってはあっていいと思う。

昨日の朝日新聞夕刊のコラムでは、刑期を終えて社会に出ても結局社会にまっとうに復帰できないまま犯罪を犯してしまい、刑務所へ舞い戻ることを繰り返す「刑務所太郎」のことが取り上げられていた。つまり、現在の日本では犯罪者への矯正のシステムがうまく機能していないといえよう。

被害者や遺族が敵討ち的な量刑を求めるのも、結局刑罰システムや被害者救済制度の機能不全によるものだと思う。被害者感情を汲み取った量刑の軽重というのではなく、そういったシステムの問題として見ていかないと、敵討ち的な発想から抜け出せないのではないか。