父親という存在

中学生くらいの頃、どこかに友人と旅行する時や何か大きな買い物をする時、まず相談するのは母親だった。母親はあれやこれやとケチを付けて、僕の要求の妥当性を揺さぶりにかかる。それが大したことのない要求であれば母親の許可で「承認」、ということになっていたのだが、ある程度のことになると母は父の許可を得ることを求めた。それは母が判断を父に委ねるというだけでなく、父親に相談できないような要求なら取り下げろ、ということをも意味した。

けれども父は、僕の要求に反対意見を言うことはあっても、結局僕の責任において要求を認めていたように思う。大学を私立にする、ということを切り出したときも、母は反対したが、結局父が渋々ながらも承認してくれたことで、進路を決定することになった。

東京の大学に通うということは親元を離れるということでもあり、そのせいで僕はある程度は親離れをしたように思う。洗濯物は洗濯かごに入れていても決してきれいになってたたまれて出てくることなどない、ということや、好きな物ばかり好きなだけ食べているとお金が無くなるといった、今考えると当たり前のことを実感したのは、親元を離れたからだ。

けれどもその頃にはまだ、自分の親を一人の人間だと思うことにまでは考えが及んではいなかった。

 

大学1年の冬、父と二人で雲仙と海とが見える展望台にドライブに行った。雲仙普賢岳が噴火を始めた、というニュースは東京でも聞いていたが、まだそれほど激しくはなかった。帰省していた僕は、その煙を望むことができる展望台に行きたいと、自分から言い出した。もしかすると父の運転する車に乗るのはこれが最後になるかも知れないと思ったからだった。そして父との思い出も。その予感は的中した。

 


9年前の今日、父が亡くなった。

父の病気は肺癌であった。帰省したのは、母に告知されたその病名を聞くためだった。ヘビースモーカーだったのがたたったのだろう。あるいは、単身赴任先で無理を重ねていたのかも知れない。病気一つしないことを誇っていつも筋トレをしていた父に、大事をとるという言葉はなかったのだろう。

まだ43歳だった父の癌の進行は若いだけに早く、そのドライブから僅か3ヶ月半の命だった。44歳の誕生日を迎えてからまだ1ヶ月も経っていなかった。長男の僕が二十歳になる姿を父が見ることはできなかった。

 

通夜と葬儀には、大勢の人が参列した。現役の銀行員だったから、行員だけでなく取引先の人なども駆けつけてくれたのだろう。通夜の時には、3時間くらい休む間もなく弔問客が訪れ、僕と母親は家族としてずっとお辞儀をしていた。葬儀の時にも100メートルくらい先の、団地の入り口まで弔問客の車が停まっていたらしい。けれども、火葬場についた頃にはもう親族だけとなった。

最後の別れが終わり、いよいよ荼毘に付すという時、母が棺を抱いて泣き崩れた。この棺を持って帰るのだと言って。僕はこの時初めて、自分の母を「母」としてではなく、父の妻なのだと感じた。息子である僕でさえもが入り込めないような、父と母との関係を感じた。この人は、父のことを本当に愛していたのだな、と、その時実感した。自分の親を、一人の人間として感じた瞬間だった。

棺がボイラーの中に入り、鉄の扉が閉まると、点火される。「ボーッ」と音がする。あまりの無情な音に僕は耐えられなかったが、白骨という「物体」となって再び僕らの前に姿を現す、これが死の現実というものだった。

最後のドライブで父と一緒に見た普賢岳は、父が骨となった翌日、大火砕流を起こして多くの人の命を奪った。何十台もの緊急車両が島原の方向に走る様子を見ながら、また人が死んでいくのかと思うとやりきれなくなった。

 

結局僕は、父親を一人の人間として相対化できないまま、父そのものを失ってしまった。
敢えて言うなら、母親を一人の人間として相対化することを通じて、間接的に相対化しているに過ぎない。だから僕は、「父親なんてさあ・・・」という子どもとしての愛憎半ばした台詞を、頭では理解できても決して実感することができない。父親を「嫌い」だということさえ理解できない、存在しない人を嫌うことなどできないから。

けれども、父親を相対化できないにしても、僕なりにいろいろと考えて出した結論には、生きていたときと同じように父親も認めてくれているような気がしている。父はたぶんそういう人だ。

今僕は、父親に認めてもらえるだけのことをしているのだろうか。