大塔宮護良親王の研究

今論文にしようとしていることが思わぬ方向に飛び火して、ちょっと大塔宮護良親王について調べてみる必要が出てきた。

まあご存じの方も多いとは思うが、彼は後醍醐の皇子である。後醍醐が二度目に元弘の変で挙兵したとき、比叡山の座主も経験した彼は還俗して護良と名乗り、宮方として鎌倉幕府追討に活躍した人物である。建武新政後、足利尊氏と対立し、結局捕らえられて鎌倉にて殺された。

で、雑誌記事索引でちょっと調べてみたのだが、「大塔宮」や「護良」で検索しても、日文系の論文しか見当たらない。もう少し以前の論文や本は少し探し当ててはいるのだが、ここ10年ばかり、日本史の分野でメジャーな雑誌には護良の論文は出ていないようだ。概説的なもので最近のものでは、森茂暁氏の『皇子たちの南北朝』(中公新書886 1988年)がある。専論としてもこの成果が現在の到達点かも知れない。

太平記に出てくるので、この時代を描くときに護良親王はよく取り上げられる。だが、皇国史観への反動ということもあって、あまり触れたがらかったというのが研究の少ないもっとも大きな原因だろう。

ただ、もはや50年以上も前の皇国史観の反動という時代ではない。それでも研究されてないテーマというのは、やはりそれなりの理由があるだろう。僕がちょっとやったことのある懐良に比べ、護良の発給文書はそれほど多くなく、またちょうどこの頃古記録もあまりないので、彼の動向は構造的な分析の対象にはなりにくい。

それでも、彼の動向が政治史上大きなインパクトを与えたのであれば、まだ分析対象として取り上げられているかも知れない。まあ、インパクトがあったと言えないこともない。だが、彼の活動期間があまりに短期である以上、悪党論とか後醍醐政権論、将軍論や地域史ではなく、彼の活動そのものに独自の意義を見出していくのは、正直難しいだろう。

護良の研究は、日本史サイドではこれからもそんなに進みそうな気がしない。やはり日文サイドからの太平記関連の研究で今後も進んでいくのだろう。この辺りは、文学と歴史との、研究対象の違いになるのかなあ。