「誰もがレイプ衝動をもっている?」

っていう記事がここで紹介されていて、すでに何人か取り上げた日記書きの方もいるようだ。こことかこことかこことか。

僕もこの記事、一読して、直感的におかしいと感じた。なんか論理的ではないのだ。「自由主義史観」の時に感じたような感覚。で、よく読んでみることにした。

以下の文章はこのMSNの記事の内容を基にしたコメントなので、「レイプの博物誌」そのものの批判たりえてはいない。

まずおかしいと感じるのは、シリアゲムシの生殖行動を単純にレイプへと結びつけている点。このインタビューでは、生殖行動の基本形が手土産かレイプであるかの二つの「選択肢」であると述べられている。だが、「選択肢」であるとするところがすでに論理の飛躍の見られるところである。インタビューを読む限り、シリアゲムシの生殖行動の基本形は、手土産を持ってメスのところに行くことであって、ソーンヒルが「レイプ」と称するところの行動は「手土産を持たない場合」に限定されている。ソーンヒルは、この限定要因をことさらに拡大して、「選択肢」にまで押し上げているといえる。

しかもその「選択肢」を、「自然な、進化によって学んだ生殖戦略」であるとする。だが、限定要因が「選択肢」に格上げされたように、「選択肢」もいつの間にか進化論的な「生殖戦略」にすり替えられている。

彼の研究結果を、門外漢である僕が「進化論的に」説明しようとすると、「レイプ」が自然であるという彼の結論とは逆に、むしろ、シリアゲムシのメスは手土産を持ってきてくれる方のオスと生殖行動を行う、となる。手土産のないオスというのは、要するに餌を獲得することのできなかったオスであるということなのだろうから、そういうオスは生存競争の能力に乏しいといえよう。だからそういうオスに対してメスが抵抗するのは、生存競争の能力に乏しい個体との生殖行動を拒否しようという「進化論的」行動なのではないか。

シリアゲムシの生殖行動を「レイプ」にたとえ、それを「選択肢」だと言ってしまうこと自体、ソーンヒルという研究者の視点の位置を如実に示していると言える。彼はことさらに「レイプ」が自然な行為であると言いたいがために、自分の研究結果を恣意的に解釈しているようだ。

人間の「レイプ」が進化論的に説明できるかどうかについては、彼の議論についての記事自体の情報が少ないので判断材料に乏しい。けれども、男性がレイプするはずの女性は「主に若く魅力的で生殖能力の高い女性」であることが「生物学的観点」から言えるというような奇妙な説明一つをとっても、人間のレイプが自然だという主張がおよそ議論として成立しているとは思えない。「魅力的」という内容一つを取ってみても、地域や時代によっててんでバラバラなのに。

研究の内容と倫理的な問題とは別、と言ってること自体が、自らの研究者としての視点の在処を隠蔽する役割を果たしている。結局、彼自身が「レイプ」を自然であると考えるような発想をしているということなのだろう。


けれども、こんなのを研究だ科学だと思われるのはいやだなあ。