「実証史学」

「真理」の話題で思い出したので。

自由主義史観」問題の時、「歴史の真実を歪めるな」というキャッチフレーズが近現代史の良心的な研究者によって唱えられた。これに対して上野千鶴子氏が、実証史学批判とジェンダー論を組み合わせた議論を展開している。(上野千鶴子ナショナリズムジェンダー岩波書店 1998-03)

(本を引用して書いてたんですが、なんだか論点が散漫になってしまいそうなので、僕の言葉で適当にまとめます。)

自由主義史観」の人々は、基本的に「裏付ける史料がない」ことを理由に、慰安婦徴発において強制連行はなかった→慰安婦「問題」そのものがなかったという論理を組み立てる。

これに対して良心的な近現代史研究者(基本的には戦後歴史学の立場)は、事実認識、つまり実証のレベルで反論を組み立てていく。

ところが、両者がともに立っている「実証史学」そのものに対して、上野氏は批判を加えている。

(ここでちょっと補足:
明治以降、「客観的」「第三者的」であるとされる史料に基づいて歴史を叙述する(実証主義)ことによって、それまでは文学の一分野としての性格が濃厚だった歴史が、科学的な学問としての体裁を整えることになった。)

で上野氏は、「実証史学」が証言よりも文書を、私文書よりも公文書を史料として価値の高いものと判断する点を踏まえ、「実証史学」が支配者の立場に同一化しやすいこと、被害者の証言を2等史料として軽視してしまう点などを軸に批判を組み立てている。


上野氏はこのあと、ジェンダー史などへも言及するのだが、とりあえず僕が関心を持ったのは、本格的な「実証史学」批判という論点であった。

戦後、皇国史観へのアンチテーゼとして出発した「科学的歴史学」は、「科学」を標榜するための手続きとして実証の手続きを重んじるようになった。特に皇国史観において実証主義が放棄され御用学問になったことへの反省が、戦後歴史学をして「実証」を重んじるようになった大きな理由の一つであることは間違いないだろう。この意味で「実証主義」が果たした役割は、計り知れないものがあると思う。

けれども、「科学的歴史学」が目指したのは「方法」の科学よりもむしろ歴史像の科学性の方だったので、「実証」という方法そのものについては、これまで歴史学内部ではあまり真剣に問われてこなかったのではないか。そしてその割には「科学」と「実証」とが安易に結びついていたような気がする。

「事実」「史実」とされることの中身を、もっと問い直していくと、「実証」そのものの問題点が浮かび上がってくると思う。上野氏は社会科学において「事実」を明らかにしようという「科学性」に疑問を呈し、常に「解釈」を繰り返していく必要を主張しているように、僕は考えている。

「科学」を前面に押し立てることで自らの政治性を隠蔽がちな「実証」という手続きを常に批判的に意識し続けることが、「実証」を「解釈」のための方法として鍛えていくことになるのではないだろうか。


もちろん、言うは易し行うは難し、だ。まだ近現代史だと、慰安婦問題とか軍隊・警察とか、論点・立場が現代の問題意識と重なり合うので、むしろ自らの立場を意識しやすいのだけれども、前近代史では、必ずしも研究上の問題意識が現代の問題と直接にリンクするとは限らない。

それでも、「神社」という存在を研究対象として選んだ以上、こういう問題は常に考えておく必要があるだろうなあ。

 

追記(2019/02/18)

上野氏による実証主義批判に、当時の僕はまじめに反応しようとしていたのだが、今考えるとこの批判は味噌も糞も一緒くたにごみ箱に捨てるような批判だと思える。実証主義の権威性や制度性への批判を、歴史修正主義批判の文脈に乗せてしまうと、むしろ厚顔無恥歴史修正主義だけが批判をものともせずに生き残ってしまう。批判の文脈は適切に、そして截然と切り分けるべきだろう。