亡き者への思い出

1999年11月21日

昨日、サークルの後輩の葬儀があった。葬儀とは言っても、密葬はすでに済ませてあり、故人の友人達を集めての「音楽葬」という形でのお別れ会だった。

 

彼女は僕が学部だった時に新入生としてサークルに入ってきた子であった。とにかく明るくて、前に進むパワーを持った子という印象があった。たぶん一番最後に何かしたのは、僕が4年の時にサークル数人でスキーに行ったことだったと思う。その時彼女を含め4人だけでスキー場の見える露天風呂に行ったことは今でもよく覚えている(もちろん一緒に入ったわけではないが)。僕が学部を卒業して彼女が3年になったころから音楽に活動の重心を移したようで、あまり会う機会がなくなってしまったけれども、卒業して楽器店に就職したことまでは風の便りで耳にしていた。

 

「音楽葬」というのは通常どのような式なのか僕にはよくわからないが、彼女の葬儀では縁のあったバンドの人たちがそれぞれの想いを込めつつ曲を演奏する、という形態の式であった。最後には、もう解散するというネーネーズがゲストとして招かれ、琉球の歌を歌った。

 

そこでは、僕の知らない彼女の側面、しかしながらやはり音楽に一生懸命進んでいこうとしていた彼女の姿があった。もちろん、それは彼女の「不在」ということを通じてではあったのだけれども。

 

死を通じて、僕はこれまで知らなかった彼女のいろいろな姿を改めて知ることになった。例えば、彼女が僕のいつも使う駅の一つ手前の駅に住んでいたこと。彼女が沖縄、というより「琉球」に心を惹かれていたこと。そして、それほどまでに音楽に情熱を傾けていたことだ。

 

ただそれらを知ることによって彼女への親近感が増すのか、といえばそうではない。僕にとっては僕が知り、思っている彼女の像が彼女との思い出のすべてなのだから、共有しない思い出を彼女の像として認知せよ、ということはできないのだ。もちろん理解はできるし、彼女の別の側面を否定する気が更々ないことは確かなのだけれども、亡くなってしまった以上、その理解を実際の彼女に投影する機会は永遠に失われてしまったのである。思い出というものはあくまで経験しているからこそ意味があるのであって、理解しているだけの思い出なんて無意味なものだ。

 

彼女の父親、正確に言えば彼女の「現在の」父親は、前近代の日本文学を学ぶ者なら誰もが知っているような有名な研究者なのだが、彼は葬儀の最後の挨拶で、「なぜ娘がこれほど音楽を愛していたのかが解った。」と言っていた。彼は娘にはかなり厳しかったようなので、おそらく娘が音楽をやることをあまりよくは思っていなかったのではないか。音楽の喩えにモーツァルトとバッハしか出てこなかったことにもそのことは暗示されていよう。

 

だが「解った」ところでどうしようもないのだ。もう彼女はいないのだから。いくら理解してももう思い出を共有することはできないという、死が我々に突きつける絶対性を、ここで見せつけられたような気がした。僕だって、彼女の音楽への思いを理解することはできても、思い出として共有することはもうできない。明らかに僕や、恐らく彼女を知る多くの友人にとって違和感を感じざるを得なかった、花に囲まれた祭壇に掲げられている彼女の遺影に献花しながら、そんなことを考えていた。
この遺影が彼女の親の選んだものであることを知ったのはその後の酒の席上だった。


そしてその席で僕は、彼女と彼女の彼がやっていたバンドの演奏を一度だけ、中央線のどこかの街の、地下に降りていった所にあるライブハウスで聴いたことがあったのを急に思い出した。

 

彼女の冥福を祈る。