因幡国府とその周辺(その1)。

こないだ新シリーズを始めたばかりなんだけれど、前の分が残っているのを忘れてた。ということで、これとあと餘部鉄橋、京都で終了の予定。

この行程は、松江から鳥取まで。途中の米子駅では、ねずみ男自販機とねずみ男売店を発見。

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風邪引いた。

連休に入ってからなんとなくだるいな〜と思っていたんだけれど、どうも風邪引いたらしい。熱はほとんど出てないんだけれど、喉がすごくいがらっぽくて、そのせいで時々咳き込む。咳き込むと、妙に体力を消耗している感じがする。そのせいで、昨日・今日はほとんど仕事にならなかった。

今週は学校は休みだが、お仕事と研究系が切羽詰まっていて、あんまり休んでる暇なんてないことに気づいた。でも、体力が落ちているせいか、仕事があまり進まない。普通ならこういう時には場所を変えてやるんだけれど、外に出ると体力の消耗が著しくて、とても大学図書館にまでたどり着けそうもない。とりあえず今日は休んで、明日にかけるか。

中国地方の旅その1:津山への鉄路

月も変わったことなので、今日から新シリーズ。

去年の夏、相方さんと津山と瀬戸内を旅行したので、その写真と旅の記録を紹介していくシリーズ。

今回の旅は、18きっぷを使って東海道山陽線を西行するという、まとまった休みがなければなかなかできないことをやった。出発日の夕方に東京を発ち、数度の乗り換えの後、浜松に一泊。浜松を出て岡山まで東海道山陽線、そして岡山で津山線に乗り換え、まずは津山に向かった。ちなみに、浜松の宿だった「浜松ホテル」は、普通のビジネスホテルなんだがクロワッサンが驚くほど美味しかった。美味しいパンを朝食で食べたい人にはお勧め。

明石海峡大橋が見えた。寝台特急あかつきではここが車内放送ポイントだったなあ。

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歴史系番組と歴史学研究

ところで、1978年に始まった鈴木健二アナの司会として知られる「歴史への招待」は、ここでの座談会なんかを読むと、歴史をテレビ的な情報として伝えたいという狙いがあったようだ。歴史や歴史学が教養・学術として君臨していた時代の残滓が濃厚に残っていた1970年代後半には、確かにそうした狙いは的確なものであったのだろう。結構な人気番組になったし、僕も歴史に興味を持ち始めてからは、何度か見た記憶がある。

ちなみにこの同じ年、網野善彦『無縁・公界・楽』が刊行された。網野さんのこの著書は、これまでの社会経済構造史を重視する従来の中世史研究者からの批判は多かったが、その後、新しい歴史学として社会史の方法論が広く普及するひとつのきっかけとなり、また日本中世史にも社会的な関心が高まった。

単なる偶然の一致ではあるが、この年に大きな変化の波が訪れたというのはちょっと興味深い。そして、社会史が90年代以降研究的に新たな展開を見せなくなっていったのと、歴史番組が停滞気味になっていったのも、奇妙な符合のように思える。

ここ最近、「歴女」ブームなんて言われているんだが、歴史学の内部では、社会での歴史への関心に対応するような、そんな大きな研究動向の変化や動きがあるようにはちょっと思えない。むしろ、日本史を志望する学生や院生も減り、学問分野として縮小傾向にあるような空気すら感じられる。それなのに、社会の中の歴史的な知的関心をどう汲み取って、それを研究にどう反映していくのかということに、これまで研究者はあまりにも無関心すぎたような気がする。「歴女」そのものは単なるブームなのかもしれないけれど、この点はもう少しきちんと考えられるべきなのではないかと感じる。

タイムスクープハンター第2部

今日はNHKのタイムスクープハンター2nd stage「室町飢饉(ききん)救援隊」を見た。このシリーズ、以前たまたま夜に見たのだが、これまでの歴史系番組にありがちな英雄史観歴史小説的な話とは一線を画していて、一般的にはあまり知られていない、当時の社会の事象を取り上げているという番組。設定自体は、未来の「タイムスクープハンター社」による取材内容というフィクションの形を取っているのだが、その試みがそこそこ成功している。

今回の内容は、室町期の飢饉がテーマ。すでに日本中世史では知られていることだが、中世の飢饉は単なる凶作だけが原因なのではなく、物資を年貢などの形で領主の集住する京都に集める社会構造、またその物資が商品として流通していく経済構造に起因している。要するに富の分配をめぐる問題という、きわめて現代的な問題関心に連なっている研究テーマだといえる。

この番組では、京都でしばしば行われた、貧者への施しである「施行」に注目し、施行を担当する武士と、飢えに苦しむと市民、そして蕩尽に明け暮れる領主たちという構図が描かれる。『看聞日記』にも記される、応永の飢饉に際しての施行が「取材」の舞台となっている。施行を担当する武士があまりに理想主義的に描かれているのは、番組の演出上仕方のないところではあろうが、領主の邸宅ではさんざん飲んで食べては吐き、また食べるといった無茶な宴会が繰り広げられているのに、その塀を一歩外に出ると飢えた人々が彷徨っているという、室町時代の京都の異様な様相がなかなかうまく描かれていた。

テレビでの歴史系番組だと、どうしても坂本龍馬武田信玄だといった人物中心になりがちだし、そしてそうした番組は歴史小説などで流布している既知のイメージを知識で補強するといった流れに陥りやすい。その点この番組は、架空の取材という形式を取っているがゆえに、テーマ設定自体に意外性があり、そのため学術的な歴史研究の成果を生かしやすいというメリットがあるように感じた。

また1ヶ月以上空いてしまった…

それなりにパソコンに向かう時間は多いのだが、論文など執筆モード突入中なので、こちらの方はとんとご無沙汰になってしまった。

今年に入ってからというもの、あまり遠出はしてないが、一日で、しかも車を使わず公共交通機関だけで熊野三山を巡るという「熊野弾丸ツアー」を決行したので、その巡見記でもアップしようと思っている。あと、去年行った中国・瀬戸内の写真もおいおい出していくつもり。

「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」

朝イチのお仕事が終わって帰宅し、少し早いお昼を食べながらNHKを見てたら、NHK-BSドキュメンタリーコレクションという特集を新宿のバルト9でやっているという宣伝をやっていた。そこで取り上げられていたのが、この作品だった。

お正月に、これまたNHKでやってた、テレビを考える座談会みたいな番組のなかで、この作品がとてもよかったということを複数の人が話していたので、ぜひ見てみたいと思っていた。けれどもNHKオンデマンドにも無いようなので、もう見られないのかと半分あきらめかけていたら、なんと今日のお昼からやるという。これは見に行かねばなるまいと即決、さっそくネットでチケットを予約して新宿に向かった。最近映画館にはとんとご無沙汰で、バルト9も初めて行った。ギリギリに着いたんだけれど、無事普通に入場することができた。けっこう席は埋まってて、しかも他の映画を見に来ていた客層とは明らかに異なる風体の人たちばかり。まあ僕もその中の一人なんだが。

さて、見た感想。ショッキングな映像や内容だったという感想がネットではよく見られたんだけれど、確かに重いテーマだとはいえ、劇場で見たせいもあってか、そういう印象はさほど受けなかった。むしろ考えさせられたのは「文化」ってなんだろう、ということだった。

以下、ネタバレご注意。

ヤノマミの嬰児殺しは、確かに我々の暮らす現代の社会の価値基準からすると「ありえない」行為だ。けれども現代の日本でもトイレに赤ちゃんが産み捨てられたってニュースを聞くことはけっこうあるし、それに少し歴史を振り返れば、戦前まで子どもの「間引き」はそれなりに行われていたわけで、決して現代と隔絶した価値観をもつ社会だという風には感じられなかった。

むしろ僕がこの件で興味深く感じたのは、殺した嬰児を白アリに食わせたのち、その白アリの巣ごと火にかける、という習俗だった。ただ死体を白アリに食べさせて終わりというのではなく、食べた白アリごと焼いてしまう。アリが人間の男性の精霊の生まれ変わりだと信じられているヤノマミ族にとって、赤ん坊を食べたアリが焼かれるというのは、やっぱりそれなりの文化的な意味を持っていると思われるのだ。番組を見た人の感想では、アリに食べさせるところにショックを受けていたようだったが、この習俗に関しては、アリも含め焼かれて天に帰るというところまでを、一連の行為としてとらえ解釈する必要があるように思われた。

それからちょっと気になったのは、出産の前、生殖をめぐるところだ。現代の社会ではセックスは恥ずかしくて隠すべき行為とされていて、だからこそそこにエロスが発生して人々を生殖活動へと向かわせるわけだが、このヤノマミの社会において、そうした「恥ずかしさ」ないしエロスの感覚がどうなっていたのか、どうにもよくわからなかった。

この部族では、女性は腰に赤くて細い帯みたいなのを着けているだけで、ほとんど全裸に近い。だから裸で興奮するという形でのエロスは機能しようがないわけで、その代わりに、真夜中の大ダンス大会で男と女が一緒に踊ることで気分を高め合う場面が撮影されていた。その後、男女は森の湿地帯に行って毒ヘビ(だったかな?)に襲われる危険と隣り合わせに交わるのだそうだ。番組の描き方として、それは「おおらかな性」という感じだったんだけれども、ではこの男女がどうして集落から離れたところで交わるのか、また、集落から離れるというその行為そのものが、恥ずかしさのような感覚を意味しているのかどうか。

こういうエロスの感受性、あるいは恥ずかしさの感覚って、その人が属する社会のあり方に大きく規定されているのではないか。ヤノマミ族の場合どうだったのかをテレビ番組としてやるのはさすがに難しいのかもしれないが、そういう感受性、感覚によって生殖行為にもっていくこと自体が「文化」だと思うので、その点はもう少し知りたかった。

ただ最初にも書いたように、この作品を見て一番考えさせられたのは「文化」ってなんだろってことだった。

上映が終わり、9階にあるロビーからエレベータで地上に降り建物の外に出ると、目の前に伊勢丹のビルと交差点が見える。新宿のど真ん中、これ以上無いってくらいの都市の中心部に放り出される。ピンクのベビーカーを押して街を歩いている、ちょっとギャル系のお母さんもいる。この人と、産んだ子どもを「精霊に返す」決断をした14歳の少女とは、何が同じで何が違うのだろう。ヒトとしての身体なんてほとんど変わらないように思えるのに、その身体を取り巻いている環境や社会は、絶望的なほど違っているような気もする。彼女ら二人を同じだと判断することも、あるいは違うのだと論じることも、文化という言葉で説明ができてしまう。

でも、改めて「文化」って何なのという問いを立てた時、同じなのか違うのかという二者択一で判断しようとすること自体が思考停止なのかもしれない。圧倒的な差異を見せつけられるんだけれども、その差異が、彼ら彼女らにとってはそれなりに合理的に説明のできる体系になっていることは、こういうドキュメンタリーを通じてではあるけれども、僕らでも理解することができる。

生きていくためのいろんな理由で赤ん坊の間引きを行わざるをえない母親は、「精霊に返す」という「文化」の論理によって、少なくとも社会的な咎め立てや責めを受けることはない。我々の社会は個々の生命を大切にするという価値観を選択しているわけだから、ヤノマミ族の間引きの習俗はアウトなんだけれども、そうした習俗を説明づける論理である「文化」までもがアウトだということにはならない。そこら辺に、「文化」というものを理解していく一つの鍵があるのかもしれないということを、さっきまでのアマゾンの世界とはクラクラするくらいに違っている風景を眺めながらぼんやり考えてみた。

関連リンク

NHKの番組サイト
NHKスペシャル



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