「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」

朝イチのお仕事が終わって帰宅し、少し早いお昼を食べながらNHKを見てたら、NHK-BSドキュメンタリーコレクションという特集を新宿のバルト9でやっているという宣伝をやっていた。そこで取り上げられていたのが、この作品だった。

お正月に、これまたNHKでやってた、テレビを考える座談会みたいな番組のなかで、この作品がとてもよかったということを複数の人が話していたので、ぜひ見てみたいと思っていた。けれどもNHKオンデマンドにも無いようなので、もう見られないのかと半分あきらめかけていたら、なんと今日のお昼からやるという。これは見に行かねばなるまいと即決、さっそくネットでチケットを予約して新宿に向かった。最近映画館にはとんとご無沙汰で、バルト9も初めて行った。ギリギリに着いたんだけれど、無事普通に入場することができた。けっこう席は埋まってて、しかも他の映画を見に来ていた客層とは明らかに異なる風体の人たちばかり。まあ僕もその中の一人なんだが。

さて、見た感想。ショッキングな映像や内容だったという感想がネットではよく見られたんだけれど、確かに重いテーマだとはいえ、劇場で見たせいもあってか、そういう印象はさほど受けなかった。むしろ考えさせられたのは「文化」ってなんだろう、ということだった。

以下、ネタバレご注意。

ヤノマミの嬰児殺しは、確かに我々の暮らす現代の社会の価値基準からすると「ありえない」行為だ。けれども現代の日本でもトイレに赤ちゃんが産み捨てられたってニュースを聞くことはけっこうあるし、それに少し歴史を振り返れば、戦前まで子どもの「間引き」はそれなりに行われていたわけで、決して現代と隔絶した価値観をもつ社会だという風には感じられなかった。

むしろ僕がこの件で興味深く感じたのは、殺した嬰児を白アリに食わせたのち、その白アリの巣ごと火にかける、という習俗だった。ただ死体を白アリに食べさせて終わりというのではなく、食べた白アリごと焼いてしまう。アリが人間の男性の精霊の生まれ変わりだと信じられているヤノマミ族にとって、赤ん坊を食べたアリが焼かれるというのは、やっぱりそれなりの文化的な意味を持っていると思われるのだ。番組を見た人の感想では、アリに食べさせるところにショックを受けていたようだったが、この習俗に関しては、アリも含め焼かれて天に帰るというところまでを、一連の行為としてとらえ解釈する必要があるように思われた。

それからちょっと気になったのは、出産の前、生殖をめぐるところだ。現代の社会ではセックスは恥ずかしくて隠すべき行為とされていて、だからこそそこにエロスが発生して人々を生殖活動へと向かわせるわけだが、このヤノマミの社会において、そうした「恥ずかしさ」ないしエロスの感覚がどうなっていたのか、どうにもよくわからなかった。

この部族では、女性は腰に赤くて細い帯みたいなのを着けているだけで、ほとんど全裸に近い。だから裸で興奮するという形でのエロスは機能しようがないわけで、その代わりに、真夜中の大ダンス大会で男と女が一緒に踊ることで気分を高め合う場面が撮影されていた。その後、男女は森の湿地帯に行って毒ヘビ(だったかな?)に襲われる危険と隣り合わせに交わるのだそうだ。番組の描き方として、それは「おおらかな性」という感じだったんだけれども、ではこの男女がどうして集落から離れたところで交わるのか、また、集落から離れるというその行為そのものが、恥ずかしさのような感覚を意味しているのかどうか。

こういうエロスの感受性、あるいは恥ずかしさの感覚って、その人が属する社会のあり方に大きく規定されているのではないか。ヤノマミ族の場合どうだったのかをテレビ番組としてやるのはさすがに難しいのかもしれないが、そういう感受性、感覚によって生殖行為にもっていくこと自体が「文化」だと思うので、その点はもう少し知りたかった。

ただ最初にも書いたように、この作品を見て一番考えさせられたのは「文化」ってなんだろってことだった。

上映が終わり、9階にあるロビーからエレベータで地上に降り建物の外に出ると、目の前に伊勢丹のビルと交差点が見える。新宿のど真ん中、これ以上無いってくらいの都市の中心部に放り出される。ピンクのベビーカーを押して街を歩いている、ちょっとギャル系のお母さんもいる。この人と、産んだ子どもを「精霊に返す」決断をした14歳の少女とは、何が同じで何が違うのだろう。ヒトとしての身体なんてほとんど変わらないように思えるのに、その身体を取り巻いている環境や社会は、絶望的なほど違っているような気もする。彼女ら二人を同じだと判断することも、あるいは違うのだと論じることも、文化という言葉で説明ができてしまう。

でも、改めて「文化」って何なのという問いを立てた時、同じなのか違うのかという二者択一で判断しようとすること自体が思考停止なのかもしれない。圧倒的な差異を見せつけられるんだけれども、その差異が、彼ら彼女らにとってはそれなりに合理的に説明のできる体系になっていることは、こういうドキュメンタリーを通じてではあるけれども、僕らでも理解することができる。

生きていくためのいろんな理由で赤ん坊の間引きを行わざるをえない母親は、「精霊に返す」という「文化」の論理によって、少なくとも社会的な咎め立てや責めを受けることはない。我々の社会は個々の生命を大切にするという価値観を選択しているわけだから、ヤノマミ族の間引きの習俗はアウトなんだけれども、そうした習俗を説明づける論理である「文化」までもがアウトだということにはならない。そこら辺に、「文化」というものを理解していく一つの鍵があるのかもしれないということを、さっきまでのアマゾンの世界とはクラクラするくらいに違っている風景を眺めながらぼんやり考えてみた。

関連リンク

NHKの番組サイト
NHKスペシャル



バルト9NHK-BSドキュメンタリー特集「This is REAL」
包茎手術で堂々と温泉へ