「日常」への想像力

いつもと変わらない、と僕が思っていた日常は、必ずしも共有されるものではないんだ。淡々と流れる日々だなんて、自分だけが思っていることなのかもしれない。僕は、日常への想像力が欠けていたのかもしれない。

 

学部生の頃いたサークルの部室に、「サンクチュアリ」という漫画が置いてあった。昔の親友がそれぞれ裏と表の世界、やくざの親玉と政治家とに分かれて日本を変えていく、といった話だったと思うのだけれど、その中の一シーンで、こういうシーンがあった。

渋谷のハチ公前の交差点を上から見下ろすことのできる喫茶店で、(確か)やくざの若頭かなにかになっている主人公が、その光景を見ながら部下に向かって、「見ろ、今交差点を歩いている奴らの目を。どれもこれも腐った鯖のような目ばかりしてやがる。」と言って、だから日本を変えなきゃだめなんだ、と説教する。そして自分は裏の世界から日本を変えてみせるんだ、と。

こういう大言壮語は、あの年頃の僕らにはけっこうインパクトがあって、男はそれなりに共感していたものだった。そうそう、今の日本は腐っている、渋谷なんか歩いてるとほんとそうだよなあ、と。

けれども、腐っているのは本当に彼らの目なのか。逆に、みんなの目が腐っているようにしか見えないなんて、まずは自分の目の方を疑ってみるべきではないのか。上から見ている分には小さく享楽的に、それこそ「腐って」いるようにしか見えない一人一人の人間に対して、正面から顔を見たのか、面と向かってきちんと話を聞いたのか。

ややもすれば、そういう一つ一つの認識の積み重ねを怠って、つい大きな視点から、大きな物語から、捨象して物事を語ってしまいがちになる。「日常」の「退屈さ」からの無意識の逃避。けれどもそれは、駅前にいる新興宗教の勧誘をしている人たち、現実逃避のために宗教にのめり込んでしまった人が見せる目と同じで、結局は大きな物語によって一つ一つの現実から目をそらそうとしていることに過ぎないような気がする。

 

僕は、自分なりに物事を大きくとらえようとしていたかわりに、「日常」への細やかな心配りを忘れかけていたような気がする。「日常」は実はちっとも日常ではなかったのに、僕だけが一つ一つの認識の積み重ねを疎かにして「日常」だと勘違いしていたことに、「日常」が崩れてしまうことでようやく気がついた。もはや日常を取り戻せなくなるところまできていたのに。