「昭和の日」再論

人間城の主さん、自分更新日記の長谷川さんの日記読み日記に取り上げていただいだ。どうもありがとうございます。

あの日は反応が多く、他の方からも何通かメールをいただいた。メールくださってどうもありがとうございます。

ああいう法案が提出されていたことも知らないうちに可決されてしまうなんて、かなり怖い。この意味で、反対の立場をとることにも十分意味があるように思う。選挙の絡みでいえば、確かに民主党にはかなりの保守層もいるのだから、そう簡単にまとまるとは思えないのだけれど、軍事や外交のような現在の問題とは違い、「昭和の日」というのはどう考えても戦前へのノスタルジーとしか捉えざるをえない性質のものだから、世代によっても考え方に随分差が出てくるような気がする。自民党の議員にとってもこれは同じだろう。
この意味で、「昭和の日」推進に力を入れているのは、かなりファナティックな右翼(保守ではない)か軍国主義教育に対して未だにシンパシーを感じている人が中心になっているのではないかとあの時は考えた。

もちろん、人がどういう考えを持つに至ったかというのは様々な要因が関係していて一概に言うことなどできないというのは、承知しているつもりだ。

ただ、そういう考えを持つに至る背景として、その人の育ってきた環境が、意外に影響を及ぼしているんじゃないか、という気がしている。

農地解放でやられた地主というのもきっとその「環境」の一部なんだと思うけれど、例えば職業軍人の子どもだった人や、財閥解体公職追放を受けた家族なんていうのも、「環境」に含まれるのかもしれない。従軍慰安婦だった人との対話で相手のいうことを信じようとしなかった板垣正議員は、A級戦犯板垣征四郎陸軍大将の子どもだし、「昭和の日」推進を進めてきた会の会長綿貫民輔議員は神主の息子である。

何度も繰り返すけれど、自分の生まれた家がそうだからと言って、そういう考えを彼らが持つようになった原因をそこに求めるつもりはないし、その点ばかりに原因を求めてしまうのはあまりにも短絡的だ。

けれども、全く関係なく個人の考え方が作られていくかと言えば、やっぱりそうではなくて、環境や経験が影響してるんだと思う。

これは主さんのいう「田舎」を字義通りに解釈するのだけれど、空襲の被害を受けたか受けなかったかの違いというのは、育った地域の問題としてはかなり大きく関係しているような気がする。少なくとも行政に進駐軍が関与した程度で占領が終わった地域と、空襲ですっかり焼け野原になった経験を踏まえた人々とでは、やっぱり戦争についての考え方は大きく違ってくるだろう。


8月9日、長崎に原爆が落とされたのは誰でも知っていることだけれども、長崎県では、この日と広島原爆の日終戦の日には必ずサイレンが鳴る。小中学校は登校日で、原爆に関する話を聞いたり副読本を読んだりする。僕はこのことをごく当たり前のことだと思っていたんだけれども、東京に来て初めての原爆の日、ふと時計を見たら11時10分過ぎだったことに気付いた。

最初、何かの間違いでサイレンが鳴らなかったのだろうと思っていたんだけれども、翌年もその翌年もサイレンが鳴ることはなかった。ようやく東京ではサイレンが鳴らないことに気付いた頃には、どうやら原爆に対する意識も東京と長崎では随分違うらしいことに気付き始めた。

原爆に対する日本人の意識など、アメリカやアジアの人から見れば「被害者としての意識しかもたない」といった点で同じに見えてしまうのかも知れない。けれども日本人の間でも、言葉にするのは難しいが、原爆に対して随分温度差があるように感じる。なんというか、当事者意識の違いというか、そういうことを感じる。

戦後の日本を覆ってきた一体感のようなものが失われつつあるのにともなって、生まれ育ってきた環境や経験の違いによる考え方の違いというものが、次第に顕れてきているのかもしれない。