研究の余地がある

どこかのページで「研究の余地がある」という言葉を見て、ついニヤッとしてしまった。

『鎌倉遺文』や『南北朝遺文』なんかの史料集の個別の史料に注記されている「研究の余地がある」という文言は、実際には「これはまあ偽文書だと思うよ」と編者が判断したときに注記される文言である。編者自身が「偽文書」だという断定を下すのではなく、注意を喚起しておいて読者の判断に任せる、という趣旨の文言なのだが、まあ実際には研究者向けに遠回しに「偽文書だ」と言っているようなものである。

例えば源頼朝関係の文書は、頼朝以来の先例ということが社会において重視されたから、自分の権益を正当化するために、随分偽文書が作成されたようだ。まあ明らかな偽文書なら、様式や用語の不自然さから活字だけでも十分判断できるのだが、精巧に作成された偽文書だと、活字史料では偽文書だとは判断できない場合がある。そういうときに注意を喚起する意味が「研究の余地がある」という言葉には込められている。

けれども、今日見たのは文字通り「研究の余地がある」と述べているだけのはず。けれどもつい「裏の意味は何だ」と変に勘ぐってしまい、訳が分からなくなってしまった。やっぱりどうも風邪のせいで頭がよくまわってないらしい。