歴史と文学

なんて大上段なタイトルを付けてみたのだが、この区別、実際のところどこまで有効なのだろうか?

僕の専門は一応日本史と言うことになっている。で、日本史の研究では「史実の確定」というようなことが、基礎作業としても究極的な目標としても重要だとされている。1600年に関ヶ原の戦いがあって、というようなことだ。確かに学問であり科学であることを標榜している以上、「家康替え玉説」なんて証拠も何もないことをまことしやかに言うわけにはいかない。

ところで歴史学という講座なり学科は、たいてい文学部に置かれている。文学の一分野だというわけだ。まあ実際には文学科とは異なる史学科が設置されていたりして、歴史学は一応文学とは「区別」されてはいる。

だが文学と歴史という具合に並べたときには、むしろ「対立」する存在として捉えてしまう。すなわち、史実(事実)を絶対視する歴史学に対し、むしろ虚構として芸術性を追求する文学、といった具合にだ。

歴史と文学が対立すると考える時、一般的には「事実/虚構」という対立を自明の前提としている。あたかも、歴史学は文学とは違って「事実」を問題にしているのだ、「虚構」ではなく現実が問題なのだ、とでも言いたげに。

けれども、歴史学の言葉で語られる「歴史」は、果たして歴史学が言いたげな「事実」なのだろうか?

歴史学は、確かに過去の痕跡をとどめている文字やモノなどの史料に基づいて「歴史」を語りはする。だがその「歴史」とは、所詮歴史学が、そういった「学問」や「科学」と呼ばれる手続きを用いて語る文章としての「歴史」に過ぎない。

こうやって語られる「歴史」は、手続きとして科学的に「事実」とされはするけれども、それは「事実/虚構」の対比としての「事実」とは無関係である。歴史はあくまで解釈であり続け、決して実在するものではない。歴史学が紡ぎ出す「歴史」は、手続きとしての「事実」に基づいているだけなのだ。

それなのに歴史学は、手続きとしての「事実」を、「事実/虚構」の対比としての「事実」、つまり実在するという「事実」に勝手になぞらえてしまっているのではないだろうか。

歴史小説という「文学」のジャンルが紡ぎ出す「歴史」が、どうして歴史学の言葉による「歴史」よりはるかに多くの人に読まれるのかということを、もっと考えてみる必要があるように思う。歴史学は「事実/虚構」の二項対立の中に安住しきってしまい、「事実」ということそのものの意味や、「事実」の限界を見失っているのかもしれない。

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こんな虚実不分明の文章を書いているから、火に掛けたゆで卵の鍋のことを忘れてしまうのだ。

焦げ臭さに気づいて、あわててガスレンジへ走って蓋を開けたら、鍋の中はカラカラで、卵がポンッといって弾けた。あーあぶなかった。