「役に立つ」

昨日の筑紫哲也のニュースによると、「理数嫌い」の子供が増えたそうである。数学の苦手な子供が嫌うのは理解できるが、気になったのはそのニュースの中で流れたインタビューで主婦が話していた「専門の仕事に就くのでなければ必要ない」という意見だ。彼女にとって数学はいわゆる「役に立たない学問」ということになるのだろう。

一方で、役に立たないことを明らかにすることこそが学問の重要な任務だ、という言い方もある。これは全く「役に立たない」学問を推奨しているというよりは、今「役に立たない」ことであってもいつ人間にとって役に立つかわからないのが学問の成果なのだ、というニュアンスであろう。

双方に共通しているのは「役に立つ/立たない」という尺度だ。だがこの物言いは価値判断を巧妙に隠蔽している。

「これは役に立たない」という言葉はあたかも中立的な言葉のように聞こえるけれど、「役に立たない」のはこの言葉を発した人がそう判断しているだけであって、「役に立たない」ことをやっている人にとっての言葉ではない。

例えば農業は人間が生きていくためには欠かせない活動かもしれないが、「宇宙物理学など役に立たない」と言った田中さんがもし彼の生業としている米作りを止めてしまっても、それで宇宙開発事業団の宇田川さんが困るわけではない。むしろ、田中さん一人が米作りをやめることよりも宇宙開発事業団のロケット打ち上げが失敗してしまう方がよっぽどニュースになる。

コンピュータのプログラミングをやっている江水さんが「日本史なんて役に立たない」と言っても、高校教師の史川さんにとっては江水さんのプログラムの方こそ何の役に立つかさっぱり理解できない代物であろう。

絶対的に「役に立つ」ことは、あり得ないのだろう。もはや狩りや農業が食べるのに直接「役に立」っていた時代ではない。我々が生きていくために不可欠な食糧さえ、さまざまな商品と化しているのが現代だ。自分の仕事に需要があるからと言って、必ずしも「役に立つ」と胸を張れる人は少ないのではないか。

「役に立つ/立たない」でいろいろな物事を判断しようとすること自体が無理な話なのだ。自分の価値観だけで「役に立つ/立たない」を決めていけるという人は、異質な価値観があることに気づいていないのだろう。

僕たちができるのは、自分がやっていることを社会に意味づけることだ。人の仕事に価値判断を下すより、こちらの方がよっぽど重要なことなのだろうと思う。