小論文を書くこと

この間の葬式のあとの飲みで、入試の小論文について議論になった。社会学をやっている友人は、型にはまった、変にこなれた文章を書く学生を指導するくらいなら、何も知らない方がましだという。その添削で金をもらっている僕は、もちろん反対した(笑)。本当に文章を書けないやつはいるし、そもそも文章以前に何も考えていないやつもいる。福祉系の大学を志望する子が「老人は早く、ぽっくり逝った方がいい」と書くような体たらくで、果たして福祉が務まるのか、と。

彼の言い分にも、確かに共感できる点はある。特に、ある一人の講師に深く傾倒してしまうような生徒は、講師の考え方を忠実に受け入れることでむしろ思考停止に陥ってしまうことがあると思う。大学に入ったばかりの頃、「予備校の何々先生は・・・」とか語っているやつがいた。端から見ると、大学に入ってもまだ予備校の話かよ、と格好悪く思ったものだったが、そういった人は大学合格という圧倒的な目標の中で語られる言説というものを、相対化できていない人々なのではないか。この意味では、大学に入ってからも模試の成績を自慢する、哀れな偏差値野郎と基本的には同じ構造をしているといえよう。

ただ僕が彼の言い分に反対したのは、それでもなお小論文を書くということにメリットがあるのではないか、と考えるからである。


文章というものは、基本的に人によんでもらうものである。それがたとえ自分しかページを開くことのない日記であっても、数年経てば他人の書いた文章を読むのとそれほど変わりはないといえよう。これはごく当たり前のことではあるのだが、このことを僕が改めて意識したのは大学も終わりの頃のことであった。

博物館学芸員資格の授業に視聴覚教育論という授業があった。メディアについての理論とか、あるいはカメラの構造とか、今の言葉で言えばメディア・リテラシーのさわりとでもいえるようなものだった。

この授業で、視聴覚教材を実際に作成する、という課題が出された。メディア論について全く無知かつ無関心であった僕は、ある都市の観光名所を適当に巡って写真(ポジ)を撮り、歴史教材として組み立てた。そこにはメディアの特性への配慮はこれっぽっちもなく、ただの写真の羅列でしかなかった。だが優秀者の作成した教材は、僕のメディアへの考え方を根本から改めさせるのに十分な出来映えであった。具体的には記憶していないのだが、ビデオの撮り方によって、同じテーマに取材しても全く違う映像が組み立てられる、といったようなものだった。

その時初めてそんなことに気づくなんて今考えると汗顔の至りなのだが、とにかく僕は、「他人に見られる」ということをこの時から意識し始めた。そうすると自分の書いてきた文章がいかに独りよがりなものだったのかが、突然見えてくるようになった。

具体的に何が見えたのかというと、読みやすい文章としての「型」が僕の文章では全く踏まえられていなかったのである。例えば字配り、漢字の割合、段落分けなどの形式的なことのみならず、「落ち」をつけることやどこに「落ち」を持ってくるか、どうやって話を盛り上げるのか、といった内容に踏み込むような所まで、僕はほとんど意識していなかったといっても過言ではなかった。当時は思ったことを文章化すればよい、あるいは観察し分析したことをそのまま文章化すればよいと、まことに本質論的かつ素朴実証主義的にそう考えていた。

だがそのことを意識した以上、「型」を踏まえていない文章は単に下手であるのみならず、内容的にも劣っていることが多いような気がしてきた。何といっても「他者」を意識しない文章なのだから。その時点でようやくそんなことに気づいた僕がすぐにうまい文章を書けるようになったわけがなく、卒業論文や、修士論文ですらも今は見るのも恥ずかしいくらい稚拙なことしか表現できていない。もちろん内容的にもだ。そして未だに、「型」を踏まえた文章を書くのが苦手なのである。


話題が戻るが、もし小論文を書くことで文章の「読み手」のことを考えることができたなら、生徒にとっても少しは考えるところがあるのではないだろうか。「添削」という行為の受容を通じて「読み手」の存在を意識すること。そのことによって、表現の問題だけでなく、表現する内容にまで生徒の意識が及ぶのであれば、添削する方としてはこれ以上に嬉しいことはないと同時に、やはりやってよかった、と感じられるのではないかと思う。小論文という入試は、いろいろ問題はあろうが、高校生が学問の方法と内容に触れることのできる数少ないチャンスなのではないか、と思う。

 

追記(20190102)

このころの論文だってかなりぐじゃぐじゃしているよなあと思わずにはおれないのですが(笑)、まあ、何というか若いですな。