「空気を読む」必要なんてあるのか続編。

僕が「空気を読む」ことについての文章を書いたあと、このことに関連する記事を目にした。さらに、「空気読めない」でググッたりもしてみた。

これらの記事を読んで思ったのは、「空気」として捉えられている対象や事態が人によって違うということだ。たとえばお葬式の最中に携帯で喋り出す参列者という例を挙げているけれど、僕はそういう行為が「空気読まない」例として挙げられるだなんて考えてもみなかった。前の文章を書いた時に念頭においていた「空気」というのは、「葬式で携帯」のような単なるマナーとかモラルなどの問題で片づけることができない、もっと微妙な、場を支配する雰囲気という意味で使っていた。

そういう行為を指して「空気読めない」行為だとする認識もありうるだろうし、僕は各人のそういう用語法や認識までもを否定したいわけじゃない。僕は単に、個々人によって「空気読めない」ことの内容やレベルが異なるという事実を指摘しておきたいだけ。

で、僕が問題だと思うのは、「空気」という言葉が人によってとらえ方も中身もさまざまに異なる可能性があるにもかかわらず、ある人々にとってはあたかも「空気」なるものが自明の存在、実体として存在するかのように認識されているんじゃないのかな、ということ。「空気」なんて関係性によって内実はいかようにも変わりうる関係概念であって、だから「空気」の意味するところがさまざまだというのは当たり前だと思っているし、そのことを意識して「空気」という言葉を使うんであれば、たいした問題はないと思う。

けれども、ググッた結果を見てて僕が感じたのは、「空気」が関係概念だなんてこと、まるで意識してない感情的な認識がやたらと目立ったことだった。「空気読めてない」という時の「空気」の中身を批判的に見ようとする文章なんて、ほとんどお目にかからなかった。見事なまでに、感情的に「空気読めない」と言うばかり。そんなの見てると、お前の言う「空気」ってなんだよ!って突っ込みたくなるんだけれど。そういう人って、自分の感じる「空気」が他者の感じる「空気」と異なるかもしれないという可能性なんて、考えることもないんだろうな。だからこそ、「空気」なんて言葉を平気で使えるんだろう。

ただ、この「空気」って言葉がやたら流行ってるということは、もしかすると、自分の感じている「空気」からこぼれ落ちる異質性・他者性を意識しない、あるいは認識しない風潮が生まれつつあるのかもしれない。そうだとすれば、やっぱり問題だよな。