書きたいことと書いたこと

10年前の僕は何をしていたのだろうと思い、当時書いていた日記を引っぱり出してみた。その日記は日々の出来事よりもそのころ好きだった女の子のことばかり書かれていて、今読み返すと10年前の11月18日に何があり自分が何をしていたのかさっぱりわからないのだが、あのころはそれが「真実」だった。

彼女の目線、仕草、時々ほんの片言だけ交わされる会話、このようなものだけが当時の僕にとっては「書きたいこと」であり、現実にテクストとして書き留められていった。毎朝7時半から始まる補習に遅刻しそうになったことも、斜め前の席に座る友達と少し仲違いしたことも、前の席に座っていた仲のよかった女の子と一緒に英単語の勉強をしていたことも、僕にとっては特に「書きたいこと」ではなかった。

その後いろいろなことがあって、僕はこの日記から数年間遠ざかっていた。実際のところ、当時の景色を鮮明に想起させるテクストを読むのがつらかったのだと思う。

けれども、もうすでにあのころの細々とした日常の景色をほとんど忘れかけている今となっては、この日記だけが「当時の僕」を伝える徴なのだ。この日記を折に触れて読むうちに、「書きたいこと」が書かれたテクストにしたがって「当時の僕」が掘り起こされていく。しかしそれは決して「当時の景色」ではない。日常の景色は記憶から後退し、テクストの描写にしたがって、彼女への想いが「記憶」として再構成されていく。

こうして組み立てられた「記憶」のなかには、すでに具体的な景色を探る糸口など存在しない。あるのはただ、もはや累々とした屍でしかない「想い」、他者となってしまった「当時の僕」だけだ。

日記というテクストは、車窓から見える風景のように過去を過去として切り取ってくれるのではなく、現在から過去へ続くレールのように、あくまで過去へのある特定の解釈を「記憶」として強要するだけのものでしかないのかもしれない。

だとすれば、「記憶」とは、そして「歴史」とはいったい何なのだろうか。