六本木ヒルズを見て。

こないだも書いたように、はじめて六本木ヒルズに行った。盛りを過ぎてる感もないではないけれど、東京観光ってことで来てるわけだし、自分だけではまず行くこともないだろうから、これはこれでいい経験になった。

まず、率直な印象として、「成金臭」とでも言うのかな、露骨に高級感を出そうとしているような、そんな雰囲気を感じた。別に金ぴかとかそういうわけじゃないんだけれど、木目調の内装とかが、ふとある時鼻につく、そんな感じ。うーん、ふと感じたイメージだから、言葉にするのはちょっと難しいな。象徴的な写真でも一枚撮っとけばよかった。

ただ、ときどきツンとくるその「高級感」も、観光地の一要素としては、まあいいのかもしれない。それはそれで貸し主側の狙いでもあるわけで、その「高級感」に引き寄せられてテナントが入り、事務所が入り、観光客が来るわけだから。でも、観光地としての要素と日条の社会生活を営むにあたっての要素とは違うわけで、張りぼての「高級感」はかえってうざいと感じるんじゃないのかな。

それからこのビル、なんだかずいぶん文化や知性というものを重視してるようなんだけれど、正直言って、あんまりそういうものを感じることはなかった。森美術館の展示自体はおもしろかったけれど、その空間だけだったな。このビルが唱える「文化」や「知性」の軽さ、ちゃちさは、文化がそう簡単に資本を投下するだけで作れるものではないことを逆説的に示してるのかもしれない。

森美術館は、むしろ芸術の側が、お金余ってしょうがない人たちをうまく利用して、こういう展示施設でも貪欲に自らの芸術の場として確保していってるような気がした。パトロンというのは、まあこんなものなのかもしれないな。

あとで調べてみたら、ヒルズのなかに会員制の図書館もあるようだけれど、本屋に行く暇もない経営者なんかは重宝するのかもしれないものの、少なくとも僕はまったく興味をそそられない。1万2千冊というと、僕の仕事場の図書室の10分の1だもんな。仕事場だと割り切れば、それはそれでいいのかも知れないけれど。

ただ、だからといってこういう風に生まれた「文化」を成金文化として切って捨ててしまうだけではいけないのかな、という気もした。「成金」ではない本物の文化と言う時、それは往々にして身分や血統や、またそれらを源泉とした富による「文化」を指す。それよりはまだ、“お金の前には平等”の今の状況はマシかもしれない。このヒルズにいる連中が、そういった平等観を失ってなりふり構わず保身に走り、格差社会の固定化に動き出した時こそが、日本社会にとってはヤバイ状況なのだろうと思う。


そうそう、今回、毛利庭園には行かなかった。実はずいぶん前に、寮の友だちとテレ朝で行われたバラエティ番組のロケに行ったことがあり、そこに池があったことを覚えている。あれが本物の池のはず。今ではまるで別のモノになっているらしい。