郊外と現代社会。

月曜からお仕事が始まるので、そのための準備をぼちぼち始めている。といっても来週はお休みなので、今から新しいことをやるには、ちょっと中途半端なんだよなあ。

地理に関しては、新しい学習指導要領になってから、地誌よりも地理学の方法論が重視されるようになってきて、教科書なんかも、「アメリカの国土と社会」とかそんなのではなくて、「世界の食生活と農業」のなかでアメリカ中南部の穀倉地帯や穀物メジャーに触れるっていうようになってきている。社会科学的な方法論の入り口として、地理をとらえようとしているようだ。

もちろん教科書では、大学受験への対応からか、それでも地誌的な記述はいちおうカバーするようになってはいる。でも僕の職場では、別に大学受験を意識する必要なんてないので、地誌の暗記にこだわる必要がない。というわけで、生徒の進路も勘案して、もう少し社会科学への入り口という性格を鮮明にした授業をやろうと考えている。で、今考えているのは、郊外と現代社会を地理学から読み解くための作業。

島田雅彦氏やや宮台真司氏など、郊外への眼差しは少しずつ意識され始めていると思うんだけれど、まだ広く共有されている問題意識とは言いがたい。でも、地域にコンビニやロードサイドストアがまだなくて、もちろん携帯もネットなかった時代を当然のこととして知っている僕らと、生まれた時からそれが当たり前だった生徒たちとの間には、おそらく大きな断絶があって、そこを地理的な眼差しできちんと問題にしていかないと、社会の変容は見えてこないんじゃないかと思う。で、その断絶を象徴的に現しているのが、「郊外」の成立と変容なんだろうと、今のところ考えている。

で、郊外というテーマを取り上げることによって、インナーシティ問題とか、日本における「再開発」、あとアメリカにすでに存在するゲーティッド・コミュニティの問題から、現代社会における管理や自由の問題までを射程に含めた授業ができるんじゃないかな、と今のところ考えている。

この問題を考えていくにあたって、いくつか本を読んだりしたんだけれど、どうやらポール・ヴィリリオが重要だということに最近気づいた。もう少し勉強しないとな。