史料の少なさと研究対象としての魅力。

昨日の報告で、ふと考えたことがあった。

昨日の報告のうち一本は、史料の少ないテーマを研究対象として選んでいた報告だった。で、そのテーマ、ゼミの後輩も修論の一部として取り上げていたテーマで、報告でも史料の使い方やテーマ設定などについてコメントしていた。確かに挙げられていた史料は以前見たことのあった史料で、その史料について後輩が以前自分自身で受けていた指摘と同じ指摘を新入生にしていたのを聞いて、軽くデジャヴ気分。

で、まあその二人だけならたまたまテーマが重なった、と言えなくもないのだけれど、実は僕の相方さんも同じようなテーマで研究やっていたことがあって、今でもその関係の研究書が僕の本棚には並んでる。これはさすがに、偶然の一致などではないんだろうなと思わずにはいられなかった。

僕なんかは史料が豊富にあって、でもこれまであまりまともに研究対象として取り上げられなかったことをやっているものだから、史料に乏しいという感覚をあまり持ったことがない。でも、それだけ史料がないながらもテーマとして選ばれるということは、やっぱりそのテーマが魅力的だということなんだろうな。

僕はこれまで後輩の研究について、なんでこんなに史料の少ない、しかも先行研究だけは多いところをやるのかなあと不思議に思っていたし、後輩にも、もう少し史料のあるところでやれば、と言った記憶すらある。

でも、それだけテーマとして選ばれるということは、やっぱりテーマそのものに魅力があるのだろうと、今回初めて思った。で、安易に「史料あるところでやったら」なんてアドバイスしちゃったこと、ちょっと反省。もちろん、史料のあるところをがしがしやってくのも、議論を形成する作業として必要だろうとは思うから、アドバイスが間違ってたとは思っていない。けれど、テーマとして魅力を感じているのなら、史料の制約が厳しいとはいえ、一つ一つの史料を大事にして、なにか新しいことを見つけていけるように、後輩にも、新入生にも、がんばってもらいたいな。