集中講義の最終日。

今日が集中講義の最終日。そしてこの専修の集中講義そのものも、今日が最終日ということになった。実は昨日の会議でそのことが決まったんだけれど、今日の授業のなかですでにそのことをアナウンスしていたから公になったってことで、これがほんとに最後の一日となった。

今日の講師は、戦争論やテロリズムなどについての著作や発言で有名な研究者。思ったよりもずいぶん若い格好で、しかもバイクでいらしてたみたいで、ちょっとびっくり。前半部分はこの方に話をしてもらい、後半はコーディネータの先生、また第1回目の講師の先生も参加していただいてシンポジウム形式の議論、という形だった。

講師の方々からも教室の学生からもいろいろと意見が出され、時間がだいぶオーバーしてしまったが、全体としては相当充実したものになったと思う。



ところで今回の集中講義では、あえて歴史学の研究者でない方々が講師を務めていて、みなさんがアクチュアルな問題関心を提示していたと思うんだけれど、では歴史学としては、あるいは歴史学研究者としてそういった問題関心はどうなっているのかというところは、コーディネータとパネリストの方のコメントとして示されはしたものの、議論としてはそれ以上展開しなかった。個人的には、そのことがちょっと残念だなあと思った。

1990年代以降、「歴史」というものが再び社会のなかで取り上げられるようになったことに対して、歴史学全体としては自由主義史観問題とか「新しい歴史教科書」問題として取り上げられてはいた。けれども、近現代史ではともかく、前近代史の側では単に歴史的事実の説明が間違ってるとかそういうテクニカルな問題をつついていくことに終始していて、どうしてそういう動きがここ10年ほどのあいだに相次いで現れ、それなりの支持を集めるのかという問題について、それほど関心を払ってはいなかったような気がしている(あるいは僕が知らないだけかもしれないけれど)。

前近代史の研究者の端くれにいる者として僕が感じているのは、近現代史と前近代史がほとんど乖離してしまっている現状のなかで、「歴史」というものに歴史以外の学問やあるいはアカデミズムを離れた社会から求められている内容の位相の変化に、歴史学の研究者はどれほど意識しているんだろうかということ。

確かに今議論になっていることは、ざっと眺める限り近現代の問題として考えられていて、前近代は必ずしも直接的に問題になっているとは言いがたい。けれども、「今なぜ」という問題関心から立ち上げるとするならば、僕はこの問題は、近現代史の研究者だけに突きつけられた問題ではないと思っている。少なくとも、単なる教科書問題ではないはずだ。

もちろん前近代史だって、前近代をテーマとする文学や美術、思想、宗教といった諸学問との連携はそれなりに進んできているようには思う。ただ大きく近現代史と前近代史とが研究対象としても問題関心としても乖離していく現状のなかで、前近代史はもしかすると、隣接諸学問との連携を深めつつも、むしろアカデミズムの中に閉じこもってしまいつつあるのではないかという思いも、やっぱり消し去ることができない。

現在の「歴史」をめぐる言説が、単なる学問的な流行であるという部分だって少なからずあるだろうし、そのことは僕だって感じる。けれども現実の社会で、「歴史」をめぐる言説の位相の変化が、決して流行とだけ言って済まされるようなうわべだけのものではないということも、また確かであると思う。そういう意味では、たとえ直接関係がないように見えたとしても、もう少し表立った形で前近代史に携わる上での問題意識として取り上げてもいいような気もする。

おそらくこういう問題なんて、前近代史を研究しているにしても、それそれの研究者が個々人の問題として考えているんだろうから、学問の問題というよりは、僕自身の問題というべきなんだろうと思うんだけれど、少なくとも今の僕にできるのは、僕自身が現在携わっている研究と今の社会との接点をつねに問い続けていく必要がある、ということなのだろう。もちろん「役に立つかどうか」とか「今必要な問題なのか」とかそういう直接的な「説明」である必要などないけれど、自嘲的にではなく本気で「好きでやっています」だけしか言えないようだと相当まずいというか、倫理的に許されないようになってくるんじゃないかと思う。パネリストの方の一人と話したことなんだけれど、研究対象それ自体のおもしろさというものも確かにあって、それがないと研究ってやっぱり進んでいかないようなところは確かにある。そういうおもしろさと社会との接点をいつも明確に説明するのは難しいかもしれないけれど、少なくとも、「好きでやってます」と平然と言ってのけてしまう、そしてそのことを許容してしまうまずさ・危うさというものはつねに意識していきたい。