見物は禁止

月曜は国分寺と立川の間にある大学での勉強会で、僕の報告。大内氏掟書についてのこと。『中世法制史料集』は確かにいい史料集だけれども、その限界も踏まえた上で使わないといけないなあ。


大内氏は山口に本拠のあった大名。天文20年(1551)に時の当主大内義隆陶隆房の軍勢に襲われ、自害する。その後傀儡の当主を立てるのだけれど、毛利元就によって滅ぼされる。

大内氏掟書は大内氏壁書ともいわれ、大内氏の家法とされる。で、勉強会では基本的にはこの法令を順に読んでいるのだけれど、「なんでこれが家法?」というような結構面白い法令が出ていたりする。例えば今日読んだところでは、「殿中見物御禁制之事」という条文がある。


殿中見物之仁事、堅固禁制之処、動知音之輩以密々令許容、剰至常御座所辺之条、以外次第也、於自今以後者、雖為御庭、不可入見物者也、縦雖為出仕祗候之人、於外様之仁者、不可奉見奥、(後略)

[書き下し文]
殿中見物の仁の事、堅固に禁制のところ、ややもすれば知音の輩以て密々に許容せしめ、あまつさえ常御座所辺に至るの条、以ての外の次第なり、自今以後においては、御庭たりといえども、見物に入るべからざるものなり、たとい出仕祗候の人たりといえども、外様の仁においては、奥を見奉るべからず


これはつまり、大内氏の当主のお屋形見物は禁止されているのに、知り合いに内々に(見物を)許可したり、あまつさえ御座所まで見に来るなんてけしからん、今後は庭でも見物人を入れてはいかん、お屋形に出入りしている家来のうちでも外様者は、奥の方を見ちゃならん、という法令である。

これを大内氏の館の警備体制がたるんでいたと見るべきか、それとも見物人が来るような立派な館だったと考えるかはこの条文からだけではわからないけれど、まあ何とものんびりした法令だ。

今でたとえるなら、所用で上京してきた地元の知り合いに、都庁の職員がこっそり都庁の知事執務室まで見学させるようなもんだろうか。できっと、たまたま石原知事がやって来て怒鳴りつけられて、都庁内に「見物禁止」の決まりが張り出されたようなもんだろう。


でも、戦国時代の禁裏(内裏)は自由に出入りすることのできる「開かれた禁裏」だったと僕の友達は言っている。その辺、大内氏と比べてどうなんだろう?権力のあり方の違いにもつながってくるのかも知れない。ちゃんと考えると結構面白いかも知れないなあ。