大統領の視線の先に

今日の南北朝鮮首脳会談のために平壌の空港に降り立った金大中大統領は、タラップの真下に金正日総書記がいるにも関わらず、まずタラップに足を踏み出すやいなや、なんだかあらぬ方向を向いた。

お昼頃のテレビでは「どうして金大中大統領は変な方向を向いてるんでしょうねえ。歓迎ムードに驚いているんでしょうか。」なんてコメントをしていたが、どうも納得できず、不思議に思っていた。夜7時頃のNHKニュースでも、そのことについては触れてなかったように思った。普通だったら、真下に国家元首が出迎えに来ているのに、明らかに礼を失する行為であろう。

けれどもTBSのニュース23では、あらぬ方向を向いていると思っていた金大中大統領の視線の先、空港のターミナルビルの屋上に、故金日成総書記の肖像画が掲げられていることをきちんと指摘していた。

つまり、北朝鮮では建国の父とされている金日成の肖像に対してまず敬意を示すという、極めて高度な政治的儀礼があの段階から始まっていたわけである。改めて外交儀礼のもつ政治的な意味を認識させられた。

それにしても、カメラの持つ力というのは絶大だ。もし僕があの場にいたならば、大統領が向けた視線の方向に間違いなく僕も目を向けるはずだ。するとそこには金日成肖像画が掲げられていて、「ああ、なるほど」と了解する。けれども、カメラはあくまで大統領の姿のみを追い、彼が向けた視線の先を捉えることはしなかった。そのために、あたかも大統領が総書記に対しそっぽを向いているかのように感じさせてしまう。きっとそれは、北朝鮮のテレビが、タラップの上から総書記を見下ろす大統領の姿を決して放送しなかったことと同じことだろう(このこともニュース23では指摘していた)。

確かに事実を映し出しているのに、その「事実」そのものが政治性を帯びている。それは、「事実」を映すカメラの視線そのものの政治性でもある。言い換えれば、カメラの視線によって「事実」は政治的に選択されている。

報道の現場にいる人々にとっては、カメラの視線が政治的だということなんてもちろん当たり前のことだろう。けれど、普通にテレビを見ている僕のような視聴者にとっては、ある程度の説明がないと理解できない。とくに、個々のシーンのどこにカメラの政治的な選択が働いているかなんてことは、たとえカメラの視線の政治性を一般論としては理解していたとしても、そう簡単に気付くことなどできないだろう。