パラシュート

飯を食いながらラジオを聴いていたら、フィリピンのハイジャックのニュースを流していた。なんでも、ハイジャックで「乗客から金を奪って」「パラシュートで逃げた」そうである。で、流れていたニュースとは、この犯人の遺体がマニラ近郊で見つかったというもので、「パラシュートは開いていなかった」そうである。

飛行機で強盗しようなんていっても、どう考えても機内にそんな金目のものがあるとは思えない。逃げるにしても地上の方がどんなにか逃げやすいか、子どもでもわかる理屈だ。まあ間抜けな奴には違いないんだろうけれど、よくよく考えると彼のことが哀しく思えてきた。

彼は明らかに間違った手段で間違った方向に向かって進んでいるのに、自分自身そのことに気付いていない。機内にいる人も、強盗という目的以前に、強盗する手段そのものが明らかにおかしいとは思っただろうけれど、ハイジャックという形で自分に危害が及んでいる以上、おそらく犯人に忠告する人などいなかっただろう。

彼は「ハイジャック」ということや「強盗」については知っていたのだろうけれど、「ハイジャック」犯がどのように目的を達するのかということについては知らなかったに違いない。知らない、というよりも自らの世界の狭さのために、間違った手段をとったことに気付く機会のないまま、「ハイジャック」をやってしまったのだろう。

パラシュートが開かないようにすることなんて、たぶん簡単だと思う。でも、たぶんパラシュートが開かなかったのではなく、彼はきっとパラシュートを開くことすらできなかったのではないか。パラシュートの存在そのものは知っていていも、パラシュートの開き方を知らなかったが故に。自分が手段を間違ったことに気付いたのは、たぶんパラシュートを開くことができないとわかった時だろう。


でも、生半可な知識を持つことは危険だ、という安易な教訓はここから引き出せても、自分の知識が生半可なのかどうか、自分が手段を間違っているのかどうかなんて、きっとわからないまま進んでいる。取り返しがつかなくなってしまって初めて間違っていたことに気付く哀しさが、彼の死に様に現れているような気がした。その意味で、自分が間違っているのかどうかに気付かない人、間違っているのかどうか考えたこともない人というのは、幸せなのだろう。