自己認識(Re:歴史研究と理論)

一番書くのに迷った部分をバシッと取り上げてくださってありがとうございます(>愚一先生5月4日)。さすがだなあ。

実証主義などの歴史学に固有の方法論や歴史学上の学術概念が確立してしまった現在となっては、社会科学の理論的業績、特に古典的な業績をダイレクトに歴史の研究に適用しようとするのはナイーブすぎる。よほどその理論に造詣が深くない限り、理論構成に都合のいい史料だけを集めてまとめた論文になりかねない。この意味で、歴史研究にとっての理論が道具だという点には賛成。

あと、あまり得策でないという部分にも共感^^;その意味では、東島氏はすごいと思う。ああいう方向性の歴史研究者がもう少しいてもいいような気もする。僕は全く向いてない、というかできないけど。

ただ、あの一文を挿入した一番の理由は、歴史学そのものが他の学問分野からどのように見られているのか、という関心が根底にある。以前上野千鶴子の本を取り上げたのもそういう関心が一つにはあった。そこで展開されていた実証主義批判が、ある意味では社会学から見た歴史学の姿の一端を示しているように思われたからだ。

歴史そのものは、「しゃちょー」の英訳をタイトルとしている雑誌などに見られるように、明らかに社会的な需要がある。けれども、そこにどれだけ歴史学の研究成果が活かされているかというと、ちょっと疑問だ。逆に言えば、需要と供給との間に明らかにギャップが存在している。

で、それだけではなく、異なる学問の間でも同じことが言えるのではないか、という気がしている。いわば、「歴史学」の自己認識に興味があるということなのだろう。