前川国男建築展を見て。

前川國男 賊軍の将

本来なら研究会に出ようかと思っていたんだけれど、試験作成が予想外のトラブルに見舞われて思いの外時間がかかってしまったので、行ったことのない研究会に大幅に遅れていくのもどうかと思い、こちらの方は断念。で、丸の内オアゾ丸善に行く用事があって、せっかくならこの機会にと思い、東京駅の赤レンガ駅舎内にある東京ステーションギャラリーで開催されている「前川国男建築展」を見に行く。サイトはこちら

正直なところ、「機会があったら」見に行こうといった程度に考えていたんだけれど、いい意味でそれは失敗。もっと早くに、ちゃんと時間をかけて見に行くべきだった。展示としては、そのくらい充実していた。

展示内容は、各建築作品の図面、写真に簡潔なキャプションが添えられた壁面の展示と、フロア中央部に設けられたそれぞれの建築模型。壁面の展示を見て、その概要を模型で確認することができるようになっていた。建築の展示が一般的にはどのように構成されるのか、僕はわからないけれど、少なくともこの展示形態は、図面と写真、文字では実感できない建築の立体的表現を伝えることに成功していたように、僕には感じられた。

その中でも展示として最もよかったのは、東京海上ビルの展示。ずいぶん窓側の端っこの方にパネルを展示してあるんだなあと思っていたが、その脇に、そこだけガラス窓が見えていて、窓の脇に何か書いてある。何だろうと思って見てみると、ここからこのビルをご覧いただけます、とのこと。この工夫にはさすがに驚かされた。まさに、東京ステーションギャラリーだからこそ可能となった展示。現実の東京海上ビルは工事現場に阻まれて一部が隠れてはいたものの、建築作品そのものを展示とした構成は特筆されるべきものだと思う。

彼の建築作品は、けっこういろんなところにあるんだなということを、今回改めて感じさせられた。以前にコンサートに行った東京文化会館国立西洋美術館、それに、こないだ行ったばかりの新宿紀伊国屋書店本店の建築も彼の手によるものだった。

で、彼の作品の展示を通じてまずわかったことは、モダニズム建築の系譜というものが戦前からあって、そのことを踏まえた上で「戦前」という時代を考えなくてはいけないのだな、ということ。ぼんやりとした戦前のイメージでは、1930年代なんて全部が全部帝冠建築に覆われていたようなイメージもあるんだけれど、決してそうではなかった。こういうのって、なんとなく「理解」はしているつもりだけれど、実感としてなかなか感じることはない。けれども今回の彼の作品を見て、当時の社会においてもそういった流れがきちんと存在していて、そんな中で日本の社会は「日本主義」の方向へと流れていったんだなというのが、改めて理解できた。

もう一つは、僕自身、あまりモダニズム建築について意識したことがなかったのだな、というのを自覚したこと。東京文化会館にしろ紀伊国屋にしろ、なんとなく「70年代」という僕が物心つき始めた頃の記憶に重なるデザインだなという感じはしていたんだけれど、それをある種の様式として考えたことは、少なくともこれまではまずなかった。

モダニズムを様式として考えていいのかといった根本的なところでの問題はあるだろうけれど、でもやはり現在の視点から考えるならば、少なくとも僕は、ある種の様式だととらえて歴史的な評価の対象たりうる作品として考えていくことによって、建築界だけでの評価ではなく一般社会においてもどのように価値があるのかを考えていくべき時期に来てるんじゃないかなと思う。

僕も含めて、たぶんモダニズム建築は一般的には作品としてはあまり意識されていないと思う。この間、確か「たけしのテレビタックル」だったと思うんだけれど、公務員宿舎がいかに役人優遇で無駄かという話をしていて、その話が派生して、東京中央郵便局の空間利用は無駄で、あんなビルは早く壊してもっと高度な空間利用をすべきだという話が出ていた。で、驚いたのは、舛添にしろ福島瑞穂にしろ、あるいはレギュラーのメンバーにしろ、みんなその提言に賛成してしまっていて、あの庁舎の建築史的な意義を誰も知らないし言わないということ。まあ、政治や経済を論じるテレビ人に教養が欠落していると言ってしまえばそれまでなんだけれど、それは別の見方をするならば、モダニズム建築が文化としていかに理解されていないか、ということでもあると思う。

けれども、そういった建築を単に「ハコモノ」として批判していればよかったという時期は、もう終わったんじゃないかという気がする。役人の無駄遣いや優遇→もっと民間の手にといった論理は、裏を返せば結局新たなハコモノを作る論理でしかなくて、そこにはきちんとした建物を建て、それを長く大切に使っていこうなんて思想は微塵もない。

戦後に建てられた建築が、そろそろ保存の措置を講ずべき時期に来ていて、けれども経済のことしか頭にない人間たちに任せてしまうと、結局取り壊して空間の高度利用ということ以外の選択肢が無くなってしまう。何が大切で価値があるのかということを社会の共通認識としてはっきりさせるためにも、これまでのモダニズム建築の歴史的な評価をすべき時期に来ているんだろうと、僕なんかは思っている。

まあ、建築に何の素養もない素人の戯言ではあるけれど。