「方言」、あるいは羽賀健二とホステスとの関係に見る言葉のセンス

流浪の番組タモリ倶楽部」を見ていたら、ある時、「ホステス出身地当てクイズ」という企画をやっていた。47都道府県すべての出身の女の子がいる、というのが売りのクラブ(お水さんの方ね)で、タモリ以下のゲスト数人が、県名を隠して登場する女性たちの出身県を当て、当たったらその彼女が脇に侍ってくれる、という、いかにも遊びなんだか仕事なんだかわからない「タモリ倶楽部」らしい企画だった。

※ちなみにこの放送はここによると1997年9月19日の「第1回銀座ホステス出身地当てクイズ」というタイトルだったらしい。

で、何人かのゲストが出ていたのだが、ダントツにホステスを侍らしたのは、声帯模写タモリではなく、羽賀健二だったのである。彼は、ホステスが数言話しただけで出身地をピタリピタリと当てていく。あの羽賀健二にしてこんな才能があったのか、と最初は思ったのだが、よく考えてみると、どうやら別に理由があるような気がしてきた。

-------------------------------

僕の故郷である九州は、今住んでいる東京の言葉とはかなり違う。

「地方でも標準語化が進んで、方言がなくなっている」と、東京の人などはよく言う。確かに、その地方の言葉独特の言い回しや語彙が、東京の言葉に置き換わっていくというようなことはあるかもしれない。けれどもその地方の言葉独特のアクセントなんかは、そう簡単に変わるものではないと思う。

僕の実家は長崎県だが、「ながさき」という発音を聞いただけで、地元の言葉を話す人間かそうでないかがわかる。もともと地元の人間なのに、東京の言葉っぽいアクセントを使うと、みんなが「格好付けてる」という反応を示す。

学校では「鼻濁音」を習った。鼻に掛かる「が」、「んが」みたいな発音するやつ。でも、鼻濁音そのものが存在せず教師も普段鼻濁音なんか使わないなかで、いきなり「鼻に掛かる」なんて言われても、子供にわかるわけがなかった。そう、僕は「鼻濁音」という概念自体を全く理解できなかったのだ。実際鼻濁音を使えるようになったのは東京に出てきてからである。


僕は東京に出てきてから、東京の人と話すときはほぼ完全に東京の言葉に変えた。同じサークルで、なんとなく言葉遣いが綺麗だな、と思った友人の口調を徹底的に真似ることで、自分の話す言葉を東京の言葉に変えてしまった。

だが上京して住み始めた地元の市運営の寮にいるときには、全くの地元の言葉だった。だから、地元の言葉と東京の言葉とをほとんどバイリンガルのように使い分けていた。これは今でもそうである。僕が電話などで地元の言葉を話すのを聞いたある友人は、「うさたろうは地元の言葉を話すときには、いつもとは全然違って早口なので、何言ってるのかちっとも聞き取れなかった」と感想を漏らした。

けれども同じように地方から出てきて一人暮らしをしている友人は、結構その地方のアクセントが混じった言葉を話していた。蛭子能収の話し方は、まさに長崎の人が東京の言葉で話そうとしたときのアクセントだ。博多の言葉は詳しくはわからないが、椎名林檎の話す言葉もかなり北部九州っぽいアクセントや語彙が混じっている。東京にいてなお地元の言葉をも話す、というある意味特殊な環境になければ、自分の話す言葉というものは本来、徐々に変わっていくものだったのだろう。

東京で、こういうアクセントの違いに敏感に反応するのは、東京の人間よりもむしろ地方から来た人間のようだ。坂道の「さか」と言うときに、「か」の方を強く、高く発音するのがおそらく「標準語」のアクセントだと思うのだが、東京では結構「さ」の方にアクセントを置いて発音する人がいる。その人はたいてい東京あるいは首都圏から出たことのない人間ではないかと思う。この間その話題になったとき、「そのアクセントはおかしい」と言ったのが地方出身者で、「いや別にいいんじゃないか、自分も言うし」とあまり意識していなかったのは首都圏出身者の方だった。それから気をつけてみると、やはり首都圏出身者は「さ」にもアクセントを置いたりしている。

そのことがあってから意識したのだが、首都圏から出たことのない人というのは、実は結構地方のアクセントに気づかないようだ。少なくとも文字にしたときに「標準語」になっていれば、わずかに地方のアクセントが残っていても違いとしてあまり認識されないような気がする。かえって地方出身者の僕の方が、話し手のわずかなアクセントの違いを聞き分けていたりする。

おそらく、自分の話す「日本語」としての言葉が揺さぶられるような経験のない首都圏出身かつ在住者は、かえって言葉に対する規範意識がそれほど強くないのだろう。それは大量に地方からの人間を受け入れる首都圏の人間としての鷹揚さだと言える。が同時に、その規範意識のルーズさが、「地方では方言がなくなった」という、「標準語」の話し手としての地方の言葉への鈍感さ、尊大さをも生んでいるような気がする。

地方出身者は、自分の「母語」(って使っていいのかな?)自体を根底から否定されるような気がしたり、あるいは否応なしに「標準化」を受け入れざるを得ない経験を体験するから、話し言葉に対して敏感になるのではないか。けれども、そういう経験があるからこそ、逆に言葉に対する規範意識が強くなり、「正しい」「綺麗な」「標準語」を話そうとし、結果として「標準語」の強化を支えている一面もあるかもしれない。僕が「綺麗な言葉遣い」を徹底的に真似たのは、きっとこの一面によるものだと思う。

実はその友人自身、首都圏生まれではあるが名古屋にも引越したことがあり、また首都圏のなかでも千葉、山の手、湾岸地帯と転居している、転校生だった。生え抜きの江戸っ子、東京ッ子ではなかったのだ。僕は無意識のうちに、東京の言葉と言うよりはその友人の話す「標準語」を「綺麗な言葉遣い」と認識していたのだった。

-------------------------------

羽賀健二が博多のタモリを遥かに凌駕して出身地を当てていったのは、必ずしも彼のナンパ遍歴だけでなせる技なのではなく、むしろ沖縄という彼の出身にこそ由来しているのではないか。標準語化運動のもっとも激しかった沖縄の出身だからこそ彼の言葉へのセンスが生まれた、と考えると、彼の背後に重く暗い近代沖縄の歴史が垣間見えてくるような気がして、必ずしも彼のことを笑えなくなってしまった。