「空気読む」必要なんてあるのか。

ちょっと挑発的なタイトルだけれど、最近思っていること。こうは言っても、「空気読む」ことを全面否定してるわけじゃない。あえて読まないってことも必要なんじゃないか、ということ。

確かに、たとえば部下として業務の流れを自分なりに把握して上司のサポートをするとか、そういう能力は以前からも必要だったと思うしこれからも必要だろう。別にそんな能力まで一様に否定するつもりはない。

ただ、ふと気づくと、TVのバラエティなんかで、面白いことやギャグ言うことよりも進行のスムーズさを重視するような発言をタレントが大っぴらにしてるし、ネットでも空気読むことが普通だとされちゃってきている。普通の会話のなかでも、妙に「空気を読んで」、つまり暗黙のうちに気を遣うことがいいことだとされてきている。というか、それが表だって現れてきている。

でも、「空気読む」ことが、ほんとにいいことなんだろうか。芸人は、「空気読む」ことなんかよりも、面白いこと言うのが本業ではなかったのか。友人との会話で自由に話ができなくてどうするのか。

発言が、発言する者の意志ではなく、力のある者・上位者の意志を忖度し、おもんばかって「空気を読んだ」発言をすることが美しいとされるようなの、発言が権力や監視にゆがめられてるだけのことで、ちっともいいことだとは思わない。友人との「その場の雰囲気」を壊すことを極度に恐れるあまり、相手に対して何か異論や反論が言えずその場を流してしまうようなことを、「空気を読む」だなんて言い換えるのは、グロテスクだ。そういう暗黙の圧力や意志が人間関係での大きなウェイトを占めるようになるのって、正直気持ち悪いし、いびつなあり方だと思う。

「空気を読め」っていうこの言葉に、前からなんか違和感を感じてたんだけれど、どうやらこの言葉のもつ権力性、自由な発言を奪う強い規制性に、僕は無意識のうちに反応してたんだろうな。こんな言葉が流行ってるって、どういうことなんだろ。こんな"コミュニケーション"能力、身につけたってつまらない人間になるだけだと思うんだけれど。

食わず嫌いで避けてたんだけれど、この辺も読んでみといた方がよさそうだなあ。ただ、現代の「空気読め」って、丸山が最初に言ったいわゆる「無責任体系」論のようなのとは、ちょっと違うような気がするんだけど……その辺はまだうまく説明できないな。「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))