人を嫌うということ。

正直言うと、僕はこういう感情を意識したことがない。「苦手だな」「避けたいな」という感情は、相性の問題もあるし、そりゃ持つことはある。けれども、そこから「嫌い」という感情に発展することはない。

これはいいところを見せようとかそういうんじゃなくって、子どもの頃からの僕の性格なんだろうと思う。嫌いという感情を強く抱いた経験なんて、生まれてこの方、覚えている限り一度もない。

ただ、だからといってそれがいいことばかりだったわけでもない。

人を嫌うことがない、ということは、「人を嫌う」人の気持ちが理解できない、ということでもある。僕には「人を嫌う」ことがなんとなく頭で理解はできても、本質的なところで、他人のことを嫌いと言ってしまう、そのことに共感することはない。

だから、「人を嫌う」という感情のベクトルが自分に向かっている時、つまり自分が嫌われている時には、どうして相手がそういう感情を持ち、自分にそんなマイナスの感情をぶつけてくるのか、結局のところ理解できない。

まあ、人のことを嫌う感情なんてどうせ理性では説明できないものなんだろうから、考えるだけ無駄。もし理由があるのなら、少なくとも対話しようと考えるだろうし、対話で和解できる相手なら、お互いとっくにそうしてるだろう。対話の必要性を感じないのなら、自分に感情をぶつけてくることなど無いだろう。負の感情をぶつけてくるヤツなど、理性で話ができないのだから、相手にするだけばかばかしいということはわかってる。

けれども、僕の心理として、嫌ってる相手と対話しようともせず、それなのに陰に陽に負のエネルギーをぶつけてくる―「人を嫌う」人のそんな心理や行動が理解できないがゆえに、なんでそんな態度取るのかがすごく気になる。

いちおう断っておくと、僕は「人を嫌う」ことが“ありえない”ことになってるような仲よしグループが好きなわけではない。むしろ、仲よし状態を生み出すための同調圧力―ご飯も一緒、トイレも一緒、意見もなにもかも一緒、みたいな―が強力な烏合の衆なんて大嫌いだ。つまり、「みんな仲よし」がいちばんだなどと考えてるわけじゃない。

ただ、だからといって「人を嫌う」ことを当たり前だと考えたり積極的に位置づけようとする―なんの生産性もないのに特定の個人に負のエネルギーを持ち続ける―、その意義が、僕にはまるで理解できないのだ。

正直なところ、僕は別に理解する必要を感じてない。「人を嫌う」ヤツなんて、その分自分にも負のエネルギーが還ってくるわけだから、ばかなことをしてるなと放っとくのがいちばんだと思う。けれども、「人を嫌う」ことに自覚のある人ならば、「人を嫌う」ヤツへの応対も、もう少し冷静になれるのではないかな、という気もする。逆に言えば、僕にとってはまるで意味のない「人を嫌う」ことに大きな精神的な力を使う、しかもそのベクトルを僕に向けているというそのことが、やっぱり気になってしかたがない。

少なくとも、まったく無関心じゃないってことだから、なのかな?