自ら死ぬ、ということ。

自民党国会議員が自殺した、というニュースを知った。郵政民営化への賛否で板挟みになったのではないか、という同党議員の意見なども示され、人の死すら政局に絡めてしまうあり方に嫌気がしたが、その後の読売新聞の報道を見ると、昨年末からうつの症状で、薬を服用していたらしい。

遺書も見つからない以上、理由をあれこれ詮索しても仕方のないことだと思う。それに、遺書がないということは、引き金になったいろんな要因があったとはいえ、直接的には、病気のせいなのかもしれない。


人が自ら死のうと思う時、そこには、たぶん何らかの理由があるのだと思う。遺書なりなんなり、何らかのメッセージがある場合には、それはわかりやすい。

けれども、一般的によく言われる“いじめやリストラを苦に”といっても、本当のところ、ただそれだけでは死ぬ理由にはならないのではないかと、僕は思っている。そして“いじめやリストラ”がきっかけだったとしても、そこから自ら死を選び取るまでのまでにはプロセスがあって、そのプロセスを経てしまったことこそが、ほんとうの死の理由なのではないかと思う。

いじめを受けたり、あるいは社内でリストラされたとしても、現代の日本社会では、物理的に生きる条件を奪われる、なんてことはない。本気で生きようと思えば、何やったって生きていけるのが、今の日本だと思う。

でも、物理的な条件さえ満たされたら生きていけると言えるほど、人間は強くはない。そういう事態に直面してしまうことによって、その人は、自らの存在を社会的に否定され、ふだんは考えることもない「なぜ自分は生きているのか-死んでしまった方がいいのではないか」というような問いを発してしまわざるをえないような状況に、追い込まれてしまう。

もし、自らの存在そのものを肯定してくれる人―それが同情であっても、批判であっても―がいる…そう思えたならば、たぶんその人は、自分の存在が社会で否定されていないことを、何とはなしに気づくことができるのではないか、と思う。そして、そのことに自身が気づいたならば、すなわち、自己を肯定する他者の存在を意識することができたなら、きっと、自殺という行為にまで及ぶことはないんじゃないかという気がする。

けれども、これまでの自己―すなわち、すでに社会的に否定されたと感じてしまった、いじめられ、あるいはリストラされてしまった自己―の姿のみを肯定されても、その人は、自らの存在そのものを肯定されているようには思えないだろうし、そこで、社会とのつながりが切れたと感じてしまうだろう。

そうやって、自分の中で社会とのつながりが切れてしまった時、自己否定の感情が沸き起こってしまうと、もう自分の殻の中だけで、自己否定の感情が増殖する。周囲の人がいくらその感情を否定し、社会とつながっていることを強調したって、その人にはもはや、言葉は届かないだろう。

僕はそういう意味で、自殺は、社会とのつながりが切れたと感じ、自分の存在を疑いだしたその人が、社会に向けて発する、最後の意思表示だと思っている。うつの人は、社会とのつながりが切れたと判断するレベルが普通の人より低かったり、自己否定の感情が普通の人よりはるかに強い、というだけで、自殺に至るプロセス自体は、結局同じじゃないかと思う。


代議士という、社会の中枢にある立場と職務をもっていながらも、社会とのつながりが切れたと感じて精神的に孤立し、自己否定の感情を自ら打ち消すことができなかった、その思いはいかばかりのものであろうか。彼とはなんの縁もゆかりもないけれど、彼の死に感応し、こうやって死のことを考えさせられたという意味では、なにかの縁があったのだろう。ここに、ご冥福をお祈りしたい。