文字と声。

以前の僕は、文字によって、つまりは論理によって相手に物事を伝えれば、相手も理解し納得してくれると思っていた。

でも、それではだめなことだってあるのかもしれない。きちんと論理立てられた文字の言い訳よりも、ごめんっていう声の一言の方が、相手にわかってもらえることもあるのかもしれない。

お互いがお互いを誤解し、対立がもうどうしようもないところまできてしまったある事件の後、僕は、それまでのように文字ではなく、声で伝えようと思った。その時、きちんと謝ろう、その意志を伝えようって覚悟を決めた。それで、ほんとうに僕のことを許してくれたのかどうか、それは今でもわからない。けれども、僕が嘘をついていないこと、ほんとうに謝りたいと思ったことだけは、ちゃんと伝えることができたような気がする。


古文書の書状の最後に、よく「使者に詳しいことを述べさせます」っていう文言が入ることがある。当事者がみなこの世からいなくなり、時も移り変わり、書状に書かれた文字からしかそのことをうかがい知ることのできない僕らは、ついついそういう文言を定型句として処理しがちになる。もちろん、そういう場合だってあるだろう。でも、真実が使者の声の中にこそあることだって、少なからずある。その事件を期に、そういうことについて想像をめぐらすようになった。たとえその真実が、短いことばに過ぎなかったとしても。