「忘れる」ということ。

あの時の傷が痛かったことは覚えている。でも、傷の痛みそのものは覚えていない。

という言葉を、誰かから聞いたことがある。

記憶から消したいと思っても、なかなか消えない思い出。ふだんは抑圧しているつもりでも、不意にそのことを思いだしてしまって、いたたまれない気分になったり悲しんだり、後悔の念に駆られたりすることがある。そのことを忘れてしまいたいのに、「忘れたい」と念じること自体が記憶を固定させているような、そんな悪循環。少なくとも傷が癒えていないうちは、傷の痛みを忘れることはできないだろう。

でも、傷の痛みをずっと覚えておくことができないように、その時感じた感情も、やっぱり正確に覚えておくことはできない。いつまでも悲しんだり怒ったり、恥ずかしかったりっていうことは本当はなくって、ただ、何らかの「傷」に対して、そういう記憶として覚えておこうと現在の自分の心が意味づけているだけ。

だから「痛み」を忘れてしまって「痛みの記憶」になってしまうのと同じように、悲しさやつらさ、恥ずかしさといった感情も「そういう感情」の記憶としてしか振り返られなくなる。そして出来事の記憶そのものが薄らいでしまうと、記憶としての「痛み」も忘れられてしまう。

「忘れる」ことは歴史をやってる僕にとっては怖いことだけれど、人の記憶はそれでいいんじゃないかな、と思うこともある。いつまでも「痛み」をかかえて生きていたら、これから先に受けるかもしれない痛みが怖くなってしまって、きっと先に進めないだろう。

そう考えると、「忘れる」ってことがまんざら悪いことばかりでもないような気がしてくる。


むかしやった小論文のお題でこういうのがあった。この日記だとやっぱり具体例は書けないから、なかなかうまくは書けないもんだなあ。これだと「具体例を挙げよ」って添削されそう。