史料の伝来論について

思いっきり日本史ネタだなあ。

今日図書館から駅へ歩いててふと思いついたこと。

史料解釈を深めていくためには、史料に書いてある字面だけでなく史料そのものに関する考察が必要になってくる。中世文献史学において主要な史料はやはり古文書だが、文書がどのように保存され、伝来したのかという議論が必要になってくる。

で、こういう伝来論が必要なのは僕もよくわかるし、この議論によって様々な成果が生み出されつつあるのは確かだと思う。僕自身、こういう方向での考察をやったし、今書こうとしている論文もその議論を組み込んでいる。

けれども、古文書が所蔵されているのは、量的には圧倒的に大寺社や武家の子孫の家である。もちろん、菅浦なんかの惣村文書もあるにはあるが、量としてはやはり少ない。

例えば神社の文書を史料として研究していくとき、その神社に所蔵されてきたということを強調することは、無意識のうちに神社の視点で史料を見ることにつながってしまう危険性をも孕むのではないか。

今もそうだけれども、文書の所有者というのは、たくさんの文書をフィルターにかけて、必要なものだけを残していく。もちろん、残すことで自分の都合が悪くなるような文書は残さないだろう。だから、残された史料というのは、歴史にとってではなく所蔵者にとって必要だから残された史料だ。まあ当たり前って言えば当たり前のことなんだけど。

伝来論は、その当たり前のことを気付かせてくれるという点では有効だ。

けれども伝来論に固執することによって、今度は史料に書かれている字句の解釈そのものも伝来論の枠の中に狭めてしまうことも有り得るような気がする。


うーん、うまくまとまらないなあ。明日は午前中に専修室なので、また今度。