寝台特急あかつきとの個人的な思い出

長崎発着の寝台特急と言えば、やっぱりさくら、その次があかつきだろう。けれども僕にとって縁があったのは、どうやらあかつきの方だった。今日はあかつき最終の日なので、個人的なあかつきの思い出を記しておきたい。

あかつきを最初にじっくり見たのは、たぶん小学校4、5年生のころだったと思う。当時、僕ら一家は佐世保線早岐駅から程近い団地、と言っても関東風に言えばニュータウンなんだが、そういうところに住んでいた。

住宅地というのは、案外楽しい遊び場がない。無駄を作らないような空間設計になっているんだから当然といえば当然なんだが、だから一番遊び盛りの僕らは、いろんな秘密の遊び場を見つけた。早岐駅の近くの高架下も、そんな秘密の遊び場の一つだった。その高架は僕らの住む団地に伸びる道路の高架で、普段その団地に暮らしている大人はその下に広がる空き地になんて気付くはずもなかった。うらびれて廃車が放置されているような、誰の目にもつかないそんなところだったからこそ、僕らの秘密の遊び場にはふさわしかった。

ここが秘密の遊び場になった理由は実はもう一つあって、この高架下辺りは“校区内”ぎりぎりの、いわば境界の地だったのだ。つまり見つかってもなんとか言い訳がきく。僕らは高架下のガランとした空き地で、よく野球や鬼ごっこ、サッカーをしていた。その高架の真下辺り、その秘密の空き地の一番奥に、早岐駅構内から伸びる引き上げ線の終点があった。

僕は、佐世保に引っ越す前の地で、大阪から引っ越してきた友達から鉄道のことをいろいろ教えてもらった。けれどもその空き地で遊ぶ近所の友達は、男の子としての一般的な乗物への関心以上には、ほとんど鉄道のことに関心はなさそうだった。たぶん僕だけが、その引き上げ線に興味を持っていた。

ある夕方、その引き上げ線に青い列車が留置されているのを発見した。その列車こそが、14系15型のブルートレイン、あかつきの回送車両だった。その引き込み線には、僕が記憶する限り、寝台特急のあかつきとさくらの編成が、始発の佐世保に回送される前に、ディーゼル機関車DE10に牽引されて留置されていたように思う。当時あかつきは2本運転されていたので、その引き込み線には3本のブルートレインがいったん留置され、そして本線に乗せられ、佐世保へと回送されていたのだろう。ただ早岐駅北側の踏切は、こんな回送列車のせいで長時間遮断機が閉まりっぱなしだったので、普通の人には不評だっただろうが。

僕のなかで一番だったのは、やっぱり「東京」という誇らしげな行先表示を側面に表示した、白帯の14系さくらだった。でも時間帯の問題なのか、僕がその引込線で見るのはほとんどが「新大阪」行きの銀帯、当時導入されたばかりのの最新鋭寝台車14系15型のあかつきだった。僕は、その空き地で遊ぶ目的よりもむしろ、回送列車を見ることの方を楽しみに、そこへ行くようになっていた。そしていつかは、ブルートレインに乗ってどこか遠くへ行ってみたい、そういう密かな願いを抱いていた。

しかしその後、僕ら一家は早岐を離れることになり、あかつきを見る機会もほとんどなくなってしまった。鉄道を見る機会そのものが少なくなり、僕の鉄道熱もやや低下していった。

あかつきとの縁は、それから7年後、高校3年の頃に再びやってきた*1

東京の大学を受験することにしたのだが、少し困ったことがあった。受験日の翌日が卒業式だったのだ。受験があるから卒業式に出られないというのならなんだかちょっと格好いいが、実際には前日に終わっているわけだから、ただ遅れて出られなかっただけだ。

それはなんとか避けたい。卒業式くらいは出ておきたい。そう思った僕はいろいろと調べてみた。長崎までの所要時間が一番短いのは言うまでもなく飛行機だが、当時の最終便は18時ごろ。17時に試験終了だから、搭乗手続きなどを考えると、明らかに間に合わない。翌朝の飛行機に乗っても、卒業式には間に合わない。

しかし新幹線に乗ったところで、のぞみがまだない当時の新幹線では、博多にはたどり着けてもその後がない。たしか、翌朝のかもめに乗っても、間に合わなかったんじゃなかったかと思う。受験勉強もそっちのけ、時刻表と首っ引きでいろいろと考えた。そして見つけた答えが、東京発の新幹線で岡山まで行き、岡山であかつきに乗り換え諫早へ、という荒技だった。

夕方17時に入試が終了。しかし試験が終わったからといって、そんなにすぐに解放してもらえるわけではない。答案のとりまとめを終えた試験監督が日程終了を知らせるやいなや、一目散に最寄りの地下鉄の駅を目指したが、あいにく僕の受験教室はその駅から最も遠いところにあった。駅までの道はすでに帰路の受験生で大混雑。無理やり車道を走ったりしてなんとか駅にたどり着き、そこから東京駅に向かう。東京駅到着はすでに17時45分。発車まで20分を切っていた。

当時の最新鋭100系新幹線、ひかり号博多行きの最終列車で、一路西を目指した。そして岡山に到着したのが、確か夜の10時ごろだった。まだまだ寒い岡山駅のホームで1時間ほど待つ。ここで乗り換えに失敗したら元も子もない。場数を踏んだ今でこそ、とりたててどうってことのない乗り換えだが、当時はまだそんな乗り換えをしたこともなかった。ホームのベンチに座っていろ時にも、少し緊張していた。しかし11時ごろ、岡山駅の1番ホームに到着したあかつきに、無事乗車することができた。室内はすでに就寝時間に入っており、照明は薄暗く、多くの寝台はカーテンが閉じられている。僕の寝台を見つけるとさっそく潜り込む。確か上段だったような気がする。

そして翌日の8時過ぎ、たしか8時12分だったような気がするが、諫早に到着した。迎えに来てもらった車のなかで学生服に着替え、無事、卒業式に出ることができた。あかつきのおかげで、僕は高校の卒業式に出ることができたのだった。ただ、卒業アルバムに寄せ書きを書いてもらう時間はなかった。数人に書いてもらったってしかたないとその時は思った。だから卒業アルバムのメッセージのページは、今でも白いままだ。

たぶんそれ以来、僕はあかつきに乗っていない。あかつきは新大阪、のち京都始発となったが、僕自身は東京に出てきたということもあり、寝台列車に乗る時は東京口の列車ばかりになった。また寝台列車はやや高くつくので頻繁には乗れない、というのもあった。さらに受験や合格手続の時、わざわざはやぶさを使ったりしたので、大学生になる頃には、寝台列車そのものが僕にとっては以前ほどハードルの高い乗物ではなくなったということも大きい。

けれども、卒業式前夜以来乗らなかった一番の理由は、僕にとってあかつきがもっとも身近な列車だったがゆえに、寝台列車を知ってしまった今となってはわざわざ乗るまでもない、という気持ちがどこかにあったのかもしれない。それくらい、小さな頃からなじんできた列車だった。

だからこそ、廃止されると知ったら急に、乗らなくてはと思ったのかもしれない。そして乗る列車は下りではなく、やっぱり上りでなくてはならなかった。本当は、あの頃の思いを満たすように早岐駅から乗りたかったが、もはや佐世保編成はずいぶん以前に廃止されている。長崎駅から乗るしかなかった。

自分の故郷とつながっていた列車がまた一つ、消えていく。それもまた、時代の流れなのだろう。初めてその姿をみた頃には最新鋭だったその車体も、改めて見ると、もはや車齢の限界を感じさせた。その姿は痛々しくすらもあった。ただ、列車そのものが廃止されることに、やはり何か、言葉にできない思いが残る。

あかつきというのは列車の愛称だ。その実態は、31レなどという記号で示された、ただ単に寝台車という車種を使用して運行される数多くの列車の一つに過ぎない。けれどもその愛称は本来の意図を遥かに超えて、人々がそれぞれの思いをその愛称に託し、そして記憶に留める拠りどころとなる。ブルートレインという呼称もまた、同じような記憶を喚起させる。その記憶は個々人の心の中にとどまらず、ときに時代の記憶ともなるような、大きな流れにもなる。

だからこそ、僕はあかつきという名前に、幼い頃の記憶を手繰り寄せてみたくなり、そしてわざわざその列車に乗っておこうなんてことを考えてしまうのだろう。あかつきの廃止は、僕に自分自身の何かの記憶、何かの時間が終わってしまったことを、否応なく感じさせられた。僕にとってあかつき乗車は、一つの時代、一つの記憶が終わったことを、じかに確認させる経験でもあった。もちろんこう書いてみたところで、言葉にできない思いはそのままなのだが。

寝台特急あかつき、さようなら。



あかつき号出発式などの動画はこちらに掲載されている。
http://www.nagasaki-np.co.jp/kankou/douga/62/index.html

*1:ちなみにその後初めて寝台列車に乗ったのは、高校2年の頃の修学旅行で飛騨に行く時、岐阜までさくら号に乗車した時だった。