「少年の愛した鉄道」

記事批評。『鉄道ジャーナル』に“鉄”論が載ってるってことを最近知ったんだけれど、丸善でその記事をこの雑誌の2004年10月号で見かけたので、「迷ったら買え」という鉄研の格言に従い(笑)購入。

ほとんど男性しかいない鉄道趣味の人々、それを筆者は“鉄ちゃん”ではなく“鉄”と表現する。“鉄”の生態や行動を女性としての立場で眺めてきた経験から、まず鉄道に対する考え方の、女性と男性とでの決定的な差異を指摘する。移動時間や移動手段にまったく興味を示さず、目的地での滞在にしか関心のない女性に対して、“鉄”は移動そのものが目的である。そもそも女性は「旅行することがあまり好きではない」とまで、筆者は言い切ってしまう。鉄道など旅行の手段でしかないのだから、快適で高速な移動さえできれば何でもいい、そんな女性のニーズに迎合してしまったせいで、そもそも地味で無骨な輸送機関であるがゆえに持っていた鉄道はその魅力を失った。そのため鉄道趣味も一種の懐古趣味に陥ってしまっている、という主張だ。

男女の性差決定論に傾きすぎてしまっているところが、僕としてはちょっと残念なんだけれど、この文章を僕は、男女の性差論ではなく、「旅」についての消費社会論だと読んだ。

「鉄道」はそもそも無機質で無骨なものであり、そこに人間味を見出すことが鉄道趣味の醍醐味でもある、と筆者は言う。そして、「旅」は本来、「何もない空しさと寂しさと退屈」に覆われているものであり、“鉄”の鉄道旅行とは、そういった無の空間のなかに車両ごと風景と自分とを一体化させ、自分を無にする。そのこと自体が鉄道旅行の「楽しみ」であったと、筆者は考える。

しかし「自分らしく」あることを強いられた現代の旅人は、「和みと癒し」といった甘い自己肯定のささやきの中で、他者へのまなざし、他者への関心を失ってしまった。そのまなざしを失った彼女らの「旅」は、やはり「自分らしく」あるため、「和みと癒し」という自己肯定のための空間を消費する時間でしかなく、他者との出会いの場ではない。そして旅において本来日常と非日常との接点であり、他者との出会いが開かれていく場であったはずの「移動」という時間を、彼女たちは「無駄」としかとらえることができない。「旅」をしているといっても、彼女たちは他者との出会いのない、商品としての「非日常」を消費することにしか関心がないのだ。

また、鉄道を移動手段だとしか考えていないような彼女たちに対して、鉄道会社自身が媚びを売り、快適さを提供する商品として鉄道を提供しようとしている。鉄道会社なりの営業努力であるはずのそういった活動が、むしろ逆に鉄道の魅力を削ってしまっているのではないか。こういうことを筆者は指摘しているのだろうと、僕は読んだ。

“鉄”という存在を分析するための文章のようでいて、しかし実は、“鉄”と対比される、筆者自身を含めた女性の旅行客に、そして彼女らに象徴される現代の我々自身のあり方に、むしろ筆者の目線は注がれている。

現実の鉄は、おそらく筆者が考えるほどこんなに旅ということについて考えてなどおらず、ただ単にデータベースをひとつひとつチェックしていくというだけの消費に明け暮れている。ある意味、彼女たちとそんなに変わらないのかもしれない。

けれども筆者は、あえて鉄のそういった本質には触れないことによって、女性、すなわち現代社会への批判の足場を構築する試みに成功しているといえよう。その試みはおそらく、鉄研において筆者が他者として自らの存在を意識せざるをえなかった経験をふまえているのだろうと、僕は思っている。もちろん、筆者が男性のなかで他者として存在し、そして女性(=現代社会の多くの人々)のなかでも他者であると意識せざるをえなかった経験も、そこにはふくまれていることだろう。

この記事自体はやや性別格差論に流されているけれども、筆者自身が絶対的な視点に安住できず、相対的な視点を常に意識せざるをえなかったからこそ、この“鉄”論が鉄道を通じた現代社会批判としても読める文章たりえたのだと思う。鉄道関係のライターでこういう人って、相当異色じゃないのかな。


ちなみに、この筆者は大学の鉄研の後輩(笑)。鉄研の旅行で一緒に行動したこともあるけれど、僕のまわりの連中の方がはるかに“鉄分”は濃くって、少なくとも僕はこの文章の筆者である彼女が書いているような、ストイックな“鉄”では決してなかったな。