おとうとの上京。
と書くと、イメージとしては大学進学とかなんとかで心機一転、東京での生活を始めるような印象があるけれど、現実は会社の転勤。しかも、長期出張ですでにしばらくは東京に住んでいて、実質的にはすでに単身赴任状態だった。今回は長期出張ということじゃなくて正式に東京勤務ということになったようなので、家族で東京に引っ越すことになった。
これにあわせて母親も引越しの手伝いということで上京してきた。なので弟一家と母親を出迎えに羽田に向かい、お昼を食べたあと弟の新居に向かう。新しくてきれいだし、環境も悪くはなさそうなところだった。弟の娘、僕にとっての姪っ子は、まだ家具のない広い空間が楽しかったのか、ずいぶんはしゃいでまわってた。
僕んちの兄弟も、これで二人、というか二家族が東京住まいってことになった。まさか1000キロも離れた街で兄弟が暮らしてるだなんて、実家にいた頃は夢にも思わなかった。でもそれが現実なんだよな。
レス、
愚一さん(9月27日)、レスありがとうございます!
ぶっちゃけ、僕みたいにまだ大して論文も書いてない人間は、「そんなこと考える暇があったら論文書けよ!」って批判されちゃうのがオチなんだろうけれど(笑)、そういう“業界的な”現実にばかり目を向けるようになっていくことの怖さというものもなんとなく感じていて、その間で迷ってるというところが、今の僕なんだと思う。
学問的な「質」の問題は愚一さんのおっしゃるとおりで、これを軽んじて主義主張や方法論に走ってしまう歴史学なんて、やっぱり考えられない。その点で「新しい歴史教科書」に問題が多すぎたというのは学問的な意味においては確かなのだろう(僕はちゃんと見てはいないので、確言はできないけれど)。
ただ僕が感じているのは、「新しい歴史教科書」を支持する人たちにとっては、そういった学問上の問題への指摘が必ずしも批判としての説得力をもっているわけではなくて、しかもそういう人たちが無視できないほどの数になってきている、という点。そのことは、たとえ前近代史だといっても問題として考えていくべきだろうと思ってる。
たぶん最終的には、前近代史を研究する歴史学としては「社会的需要」に批判的に応えるのが役割だということになっていくんだろうと思うけれど、そういう営みそのものが「社会的需要」を再生産しているんじゃないかという批判だっておそらく生じてくるだろうし。
正直なところ、その辺をどう考えたらいいのか、僕なりの答ないし方向性はまだ見つかっていない。ただ自分のやってる作業を、なんとかしてそういう問題意識と重ね合わせて展開させていく、そういう可能性は考えていきたい。