引っ越しなんて簡単にはできない。

私が地域格差に冷淡なのも、転居の自由が憲法で保証されているからだ。中国みたく、都市戸籍がなければその都市に住めないというのであればとにかく、日本はそういう国ではない。いやなら引っ越せばいい。自由がある以上、その自由を行使した結果、すなわち責任も我々にある。

404 Blog Not Found:自己責任から自己権利へ

たとえば居酒屋かどっかで酒を酌み交わしながら、「そんな会社を見切れなかったお前がダメなんだよ。さっさと転職しろ。」と親身にアドバイスしてハッパかけている状況だというのなら、本文の話自体はかろうじて理解できる。このままだとアドバイスとしてもどうかと思うが。

ただ問題にしたいのは、むしろ「余談」の方。

権利としての「自由」が国家によって保障されているということと、社会生活を営んでいく上で個人が「自由」に転居しうるということとは、全く、とはいわなくともかなり違う話だ。

「転居の自由」があるから、地域格差がイヤなら都会に引っ越せば良いだって!この人は、ブラジルやフィリピンや、その他世界中の発展途上国で地方から都市に出てきてスラムを形成している人々をどう思っているのだろう。彼らは自己権利を行使した「賢明な」人々なんでしょうかね。

日本の話をしてもいい。商店街がありましたジャスコできました商店街潰れました商店街は努力が足りなかったのだ嫌なら都会出て行け。もっと酷い例もある。この町に米軍基地をつくることが決まりましたよ嫌な人は転居の自由があるので出て行ってね。

自己権利、選択の権利という美しい言葉が覆い隠すのは、まさにこうした、選択する人々とその人々が置かれている環境の、圧倒的な非対称性である。

アレゴリー化する悲惨体験 - 過ぎ去ろうとしない過去

米軍基地の例は、政治というファクターが入るのでちょっと位相が異なってくるとは言え、非対称性を見事に言い当てていると思う。

でも、dankogai氏の議論に欠落してるなあと思うのは、そうした現実が形成されてきた歴史というものをどう考えているのかという点だ。沖縄の基地の問題もまた、そうした現実を形作ってきた歴史の問題がすっぽり抜け落ちる傾向があるように思う。沖縄の話を始めると論点が別の所に行っちゃうのでとりあえず居住の自由に絞って。

ここでも書いたけど、

地方都市の問題と限界集落の問題
地方都市の問題と限界集落の問題(その2)

人がそこに住んでいるという事実の裏には、多かれ少なかれ、いくらかの歴史的な営みが必ずその背後にある。地方都市の「郊外」ってのは、自由主義の波にさらされて90年代初頭に相次いだ規制緩和の結果、中心市街地の空洞化と平行して拡大していった空間だ。一方限界集落化している中山間地域などの集落は、高度成長以来労働力を都市部に奪われ次第に過疎化し衰退していった集落だ。

とくに後者のような集落は、「転居の自由」なんていう権利が生まれる以前からコミュニティを形成して運営されてきた地域だ。今そういう地域に住んでいる高齢者は、sのコミュニティの存在がゆえに社会的人間として生活を営んでいけるという側面が多分にある。そうした歴史性を無視して「いやなら引っ越せばいい。」というのは、明らかに暴論だと思う。

実は僕自身は、「村のしきたり」的なものを自明のものとしてとらえる感覚を持ち合わせていない。むしろそういうところからは常にズレたポジションを取り続けてきた人間だ。そして理不尽な「しきたり」などはなくすべきだとも思う。けれども、「村のしきたり」によってとりあえずコミュニティが機能しているんなら、その点も尊重する必要があるんじゃないか。そういうしきたりのデメリットに対して意見を言い改めていく「自由」はぜひとも必要だけれど。

権利というのは、現実の社会生活の営みにおいて各人の自由を保障する際に初めて機能しうるもので、権利の方が前にあるわけではない。「村のしきたり」に支配された人々の中にあって、都会に出たい若者を「転居の自由」によって保障することはぜひとも必要だけれど、逆に「転居の自由」があるから経済的に不利なその地を引っ越せば、という論理にはならない。

     *

最近でも少しは聞くけれど、関東大震災東海地震は、今後数十年の間にかなりの確率で起こるという。極端な話だが…

経済的コストの話をするならば、そんな危険な地域にある巨大都市、東京に社会資本を投下すること自体、経済的には合理的ではないのではないか。そして転居の自由があるんだから、今後灰燼に帰す可能性の高い都市の整備なんてのはさっさと中止して、もっと地震に対して安全な地域への移住を促進する、被害に遭うような東京に住んでること自体自己責任だ、なんで地震の被害予測が出ている時点で移住の決断をしなかったのか…

なんて話、いま新自由主義の人に話したっておとぎ話としてしか受けとめられないだろうが、その論理でこの話は組み立てうるし、しかも現実に起こる可能性のある話だ。でもだからといって、今すぐ東京を離れることのできる人は少ないだろう、というかほとんどいないだろう。僕だってそうだ。

そういうことを考えたら、「転居の自由」が国家によって権利として保障されているからと言って、個人が現実に容易に転居できるわけではないということは、すぐにわかりそうなもんなんだけどなあ。