地方都市の問題と限界集落の問題。

やっぱり無駄な道路は多いぞ - 雑種路線でいこう

これから人口が減ろうという国で、人里離れた限界集落の維持に財政資金を注ぎ込む必要は全くない。医療制度は崩壊しつつあるし、世話してくれる若者も減っているし街に出てしまったのだから、年寄りは都市部に集住した方が身のためだ。

株価を上げる44市 (2ページ目):日経ビジネスオンライン

小規模農家の離農が進めば、高齢者が山間部や郊外から都市の中心部に移り住むようになり、医療や福祉などの行政サービスを効率的に提供できるようになるかもしれない。都市の中心部に人口を集め公共サービスのコストを削減する取り組みは、既に青森市などで実施されている。「30万人程度の人口規模になれば、医療や介護、教育などの分野で新たなビジネスチャンスも生まれてくる」

最近、地方の問題を論じるにあたって、「限界集落は消滅すべきだ」的な主張をみることが多くなったような気がする。僕はこういう考え方に強く違和感を感じている。

最近の道路特定財源がらみの話でいうと、これから先、日本が明らかにオーバースペックな道路を建設していくことが難しいのは当然だし、そんなところに金を使う余裕はない。一般財源化してしまった方がいいのは誰の目にも明らかだろう。また、コンパクトシティという考え方にも、ある程度は賛成できる。

けれども、そこで問題になっているのは、果たして限界集落の問題なんだろうか。僕には、それがどうにも疑問に思えてならない。

地方で中心市街地の衰退が起こり「郊外」が拡大する動きが顕著になったのは90年代だと思う。規制緩和の掛け声のなか、大店法の改正によって郊外型の大型店舗が続々と開業していく中、商店街は衰退の一途を辿った。さらにその動きを後押しするかのように、旧市街地では区画整理を行い大きな道路を通し、また「郊外」には公共施設、特に病院などを移転させた。この流れは明らかに新自由主義的な方向性として位置づけることができる。ただ、これ以前から地方でも住宅地開発が何の計画性もなしに行われていて、「郊外」化そのものは進展していた。90年代の動きはそれが顕著になったものなんだろうと思う。

ここで取り上げられている「郊外」は、だいたいが高度成長期以降に開発された住宅地だろうから、当然その地域に歴史性は著しく欠如している。高度成長期以降に出現した、歴史を持たず広大に広がる「郊外」こそが、現在自治体にとって重い負担になっているのはわかる。最近取り上げられているコンパクトシティの話は、無計画に拡大した「郊外」をコンパクトにするということだと僕は理解している。とするとここで問題になるのは、あくまで地方都市における「郊外」の問題なのであって、別に限界集落をどうのこうのという話にはならないんじゃないかと思っている。

現在限界集落化している過疎の村っていうのは、たいてい過去数百年の歴史をもっている*1。今その集落に住んでいる高齢者は、人にもよるだろうけれど、その村で生まれ育った人がほとんどであるように思える。重要なのは、その集落は数百年から維持されてきたということであり、そして現在にまで至っているということだ。ここ数年の「財政難」により実質的な“移住勧告”がなされ、そうした集落の命運が決まってしまうほど脆弱な村では、本来はなかったはずなのだ。

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*1:そうじゃない林業集落なんかはすでに離村してる。端島軍艦島)や炭砿町なんかも同じ。