友人の訃報。

火曜日の日記にも書いたけれど、高校時代の友人が急逝した。どうやら突然倒れ、そのままだったらしい。

彼は、高校の高2・高3と同級生だった。僕と同じように社会科が好きで、問題を出し合いっこしたり、テストの成績を競い合ったりしていた。結局、二人ともそれで飯を食うようになった。といっても向こうはちゃんと専任で中学の先生をやってたんだけれど。

3年の夏休み、温泉宿に缶詰にされて勉強させられる勉強合宿の時、彼と同じ部屋になった。彼は「トランプをしよう」と言って、もう何のゲームだったか忘れてしまったけれど、僕が初めてやるゲームをやった。ある程度ルールは覚えたんだけれど、その後勝負しだしたら、わずか20分足らずの休み時間のあいだにずいぶん負け越してしまった。それからというもの、僕はギャンブルらしきものに手を出さなくなった。そんな思い出もあった。

当時僕が片思いしてた女の子の名前を、彼にバラされたこともあったな。でも、彼女とは同じクラスではなかったから、そう大した影響はなかったし、それをきっかけに、彼との距離が縮まったような気もした。バラされていやだいやだと表面では思っていても、実際のところ、そう嫌でもなかったのが不思議だった。

高校時代の彼との記憶は、あるトピックというよりはむしろ、彼もそこにいることが日常だった時間の積み重ね、とでも表現した方がいいような、そういう記憶の中にある。一つ一つの記憶自体は些細なものなんだけれど、その記憶の積み重ねは、僕にとってはかけがえのない思い出だ。

高校卒業後、彼と直接連絡を取ることはあまりなくなった。東京に出て行った僕は、地元の大学に行った彼のみならず、中学・高校の同級生とはやや疎遠になったけれど、今みたいに携帯もメールもない状況で、地理的に離れた友人と頻繁に連絡を取らないようになるのは仕方なかった。けれどもお盆や正月に会えば、高校時代の雰囲気をすぐに思い出し、バカ話に興じた。高校時代が戻ってきたような気になるのは、懐かしくもあり、嬉しくもあった。

大学4年の頃、教育実習で帰省した僕は、地元にいるはずの彼に連絡を取ってみた。彼とは連絡が取れ、一緒に飲みに行くことになった。車に乗っけてもらい、ここが抜け道で早くていいんだよという曲がりくねった道を抜け、彼の通う大学のある市街地に入った。酒を酌み交わした後、酔い覚ましだということで、彼の所属する大学のサークルの部室に行き、そこで酔いが醒めるまでいることになった。

そこにはテレビゲームがあり、二人で「桃太郎電鉄」というゲームを始めた。僕にはなんとかボンビーという疫病神が取り憑いて、何十億だか何百億だか、とにかくありえないくらいの負債がついて大負けに負けた。今思えば、彼とはゲームをしちゃいけなかったのだった。でも、最後の最後で「徳政令」だとかいうことで負けがほとんどチャラになり、人生続けているといろんなことが起こるもんだなと、酔いは醒めたがやや眠くなった二人はお互い笑いあった。朝日が昇り始めた頃、僕らはその部室を後にし、やっぱりあの抜け道を通って、実家まで送ってもらった。

もしかすると、彼とじっくり話した記憶は、その時が最後かもしれない。もちろん、何を話たかなんて、もう覚えていない。けれども僕にとってその時彼と一晩遊んだ記憶は、その後の2週間の教育実習と同じくらい濃い記憶として残っている。

彼が社会の先生になったということは、誰からともなく聞いていた。彼よりもずいぶん遅れて、僕も教壇に立つようになった。そろそろ、大人として彼と話をしてみたいな。そういう年頃だった。僕をボロ負けに負かせるくせに、けっこう気配りの細やかだった彼と、もし今話していたら、どんな話をしてたんだろう。やっぱり、今の仕事の話かな。それとも、昔僕がボロ負けした勝負事の話になるんだろうか。

でも、その機会は永遠に失われてしまった。



彼のお通夜や葬儀をやってるはずの時間、僕は東京にいて、予定通り予備校の仕事をし、あるいは史料調査をしていた。そのあいだ中、心の片隅ではずっと、「僕はこんなところで何をやってるんだろう」という思いを感じずにはいられなかった。どうして彼に最後のお別れくらい言えないのか、この境遇が恨めしかった。彼を知る人は、この東京の僕のまわりには誰もいない。彼と僕とも関係を知る人も、ここには誰もいない。彼の死を一緒に悲しむ人もいない。そのことが、こんなにつらいとは思わなかった。だからせめて、僕の持ってるこのわずかなスペースくらい、彼を追悼する言葉を記させてほしい。

正直なところ、「安らかに眠ってください」と言えるほど、僕は彼の死を受容できていない。でも、そう言うしか、彼の死を自分自身に納得させることはできないのかもしれない。