新年の活動始動。

今日は勉強の日。午後は史料講読のゼミに出席。けっこうおもしろい内容の史料が取り上げられてて興味深かった。その後移動して、次のゼミ。ここでも、僕の専門に相当近い問題が取り上げられてた。年の初めから、いろいろと刺激を受けるなあ。僕もがんばらなくちゃ。

書店の話と出版の話。

別に意識してたわけじゃないのに、今日はたまたま本の関係で気に留まったことが。

一つは、後輩との話のなかで出た、最近出版される本の数が多すぎて買えないよなあという話。歴史系出版社も最近はいろいろと大変で、史料集刊行で定評のあった出版社も倒産しているし、著書の刊行もここ数年はけっこう多くなってきている気がする。

研究費は一銭もないとはいえいちおう研究者の端くれとしては、ある程度の刊行数なら揃えておこうかという気にもなってなんとか買おうとするが、ここまで新刊が多くなるととても追いつかなくって最初から一通り揃えようなんて気にならなくなる。自分が出す側になったらとてもそんなことは言えないだろうとはいえ、難しい状況だよなあ。

も一つは、今日たまたま寄った二つの対照的な書店の話。

授業で使うための本を探そうと思って入った、駅ビルの上にある大手チェーンの書店。人文科学のコーナーから新書のコーナーに移動する時レジの近くを通ったら、10人以上の列ができてる。本買うのにレジに行っても5分以上はかかりそうな雰囲気。それを見てから新書コーナーに行ったら、本の並びが乱れている。ある新書のシリーズに別の新書が交じってたり。で、そこだけかと思ったら、別の新書シリーズのところも乱れている。なんでこんなに乱れてるんだろうってな感じ。それで気づいたんだけれど、その書店、どうもスタッフが足りていないんじゃないか。

そこでは買う気を失って、別の駅の別の、あまりチェーンとしては大きくない本屋に行った。そこはさっきの本屋の倍くらいの広さのフロアなんだけれど、本が乱れてるなんてことはなかったし、レジで待つなんてこともなかった。そこは本の配列にもなかなか気を配っていて、「こんな本もあるんだ」という発見の多い本屋だ。同じ本屋を営んでいても、少し注意してみてくと、けっこう違うもんなんだなということを再認識させられた。

図書館民営化問題のトラバへのコメント。

図書館民営化問題、ここみたいな過疎ブログとしては異例のアクセスをいただいて、トラックバックもいただいた。こないだ言及していない方の記事もざーっと読ませてもらったんだけれど、それについて考えをまとめるのは今度にして、今日はせっかくトラックバックしてくださった方の記事へのコメントを。

fujiponさんの「図書館の「もうひとつの役割」」
ここで触れられている司書の役割の重要性については、僕も同感だ。限られた予算とその図書館の性格とをふまえながら、どういった本を購入し蔵書を構築していくのか。またそうした蔵書をどのように図書館として活用していくのか。書架整理や貸出返却業務だけなら確かにアルバイトだけでも運営できるけれど、それだけでは図書館として機能しない。

また「もう一つの役割」に関して。図書館ではないが、博物館*1でも、学芸員はチケット売りや展示室の監視しかしていないように思われがちだが、地域博物館の学芸員には、博物館固有の仕事だけじゃなく、その地域の文化財についての調査研究を担っていることも多い。

集落のじいさんばあさんが毎日拝みに来ているお堂の仏像が実は平安期や鎌倉期の作であったり、旧家を解体中に出てきたこ汚い紙くずの山が実は天皇の綸旨も含むような古文書の山だったり。そういう文化財は、文化財として価値が「発見」されなければ、かなりの確率で消失してしまう。そういうモノの文化財としての価値を発見し、然るべき処置を施すのも、学芸員の仕事だ。そういった業務は博物館運営の民営化では担うことのできないものだろう。

次にスギモトさん(でいいんですかね?)の「図書館の中の人は出版不況怖くないんですか?」

ええっと、文章を引用してくださってるのだが、どういう点への批判なのかちょっとわかりかねる部分もある。とりあえず、「図書館司書について……」という直接的な引用の部分に関してまず言っとくと、solidarnoscさんに対してコメントした部分のうち「司書はいらないという主張」に関しては、よく読むと記事中に直接の言及がなかったので、ここは削除しておきたい。

で、おそらくは僕の記事に対して読者(図書館の場合利用者か)の本離れに対する危機感が薄すぎる、という話であろうと承った。

図書館論として考える場合、本という媒体そのものから離れている(ネットなどに移行している)という話なのか、あるいは本という媒体を通じて得ることのできる文化的価値や知識へのアクセス自体が乏しくなってきているのかで、話はだいぶ違ってくる。

スギモトさんの主張はなんかその辺りがごちゃっと一体になった形での危機感なので、どうコメントしていいものかちょっと迷うのだが、まず「出版不況」に関する話は、本という媒体の話だととらえるのならば、おそらくは今後図書館がどういう媒体の情報を収集し提供していくのかという話になると思う。ただ紙媒体の一覧性や保存機能の高さを考えると、5年や10年といった短いスパンで消えていくものや、学術論文のように大量のデータ蓄積があって初めて意味をなす情報ならともかく、数十年という単位で残っていくのはこれからも紙媒体ではないのかなと思う。またネットで得られる情報は体系性に乏しいので、学習という機能を果たすのはやっぱり紙媒体じゃないかという気がしている。確証はもちろん無いけれど。

ただ、この話をしてくと図書館の公共性という議論が拡散しかねないので、これでは不足だろうとは思うけれど、切り分けた論点のもう一つの方を。僕にとってはスギモトさんが

ケータイで漢字変換するやつらは漢和辞典の引き方を知らないまま成人してますよ?

と述べたような状況に関してコメントしたい。

僕個人としては、ケータイで漢字変換してれば人生事足りる人なら、それはそれでいいと思う。もちろん、それじゃ不足なんだよっていう教育を受けた上での話だけれど。ただ問題なのは、そもそも漢和辞典がなけりゃ、いくら教育しようにも漢和辞典に触れることもできないわけで、そのまま中学・高校まで来ちゃうことはないのかってこと。また、学校で漢和辞典に触れることができたとして、じゃあ学校を卒業したらどうなるのかってこと。

これはスギモトさんが出してくれた例に乗っかったあくまで極論だけれど、別に『日本国語大辞典』や『大漢和辞典』までいかずとも、『広辞苑』や『イミダス』を手元に置いとくような経済的環境にない人が、それへのアクセスを遮断されるというような状況があっていいのか、ということを僕は危惧している。

少なくとも現在の知の体系は紙媒体の集積によって成り立っていると言ってもいいくらいで、もちろんそのなにがしかはすでに電子化されているだろう。けれども、そうした知の体系への入口や見取り図を提供するのは、やっぱり本だろう。

そうした機会が保障されているということは、単に興味や知的欲求を満たすというだけではなく、現代の社会に深く関わっていく(どんなことを学んでどんな職業に就こうとかどんな資格を取ろうとかそういうことまでを含めて)ための手段が保障されていることをも意味する。そうした手段を使いこなすかどうかは最終的には個々人の意志によるので使わない人がいてもしょうがないが、もっとも大事なのはそうした機会が保障されていることだと考える。そうじゃなきゃ、アメリカで図書館が充実してるらしいなんて状況は考えられない。

なんか長くなったしけっこうズレてきたが、とりあえずそんなところで。

続きはまた。

*1:とりあえず僕の想定するのは歴史系博物館で