京都と大阪に出張(後編)

今回の関西行きは、土曜に京都で行われる講演会を聞くのと、日曜に大阪で開かれる学会に参加するため。

西本願寺を見学したあと、お昼をと思い近所の食堂に入る。「相生餅」という名前の食堂。この名前、京都でよく名前を見かけるような気がすると思い、戻ってから調べてみると、案の定、のれん分け的にいくつもお店がある食堂だった。でもこのお店のメニューに「餅」はなかった。開業当初の頃と違って餅の営業は止めちゃったんだろうか。

お昼はうどんにした。関西風のうどんが食べたくなったので。


その後講演会会場の京都女子大学に移動。ちょうど今僕の関心を持ってるテーマに関する話だったので、いろいろと有意義だった。この後懇親会も設定されていたのだが、宿で締切仕事を片づけなくてはいけなかったので、会場を辞し京都駅に向かう。

ただ、そのまま宿に向かうのも芸がないなあと思い、すぐ近所にある新日吉神社に立ち寄る。

6月の終わりごろだったので、茅の輪くぐりの輪っかが用意されていた。

この茅の輪くぐり、きちんとした出典を今思い出せないのだが、辞書を書く仕事をしている最中に読んだ、ある神社での年中行事を説明した文章の中に、明治維新の際に新政府が復興を命じたということが指摘されていた。で、「大祓」の復興を命じる法令も1871年に出されている。つまり、茅の輪くぐりが全国の多くの神社で行われるようになったのは、明治になってからということなのかもしれない。

別にその頃始められたからと言って今さら中止しろということもないんだけれど、それと祭礼の由緒を歴史的に正確に把握しておくということとは別物だろう。個別の神社の年中行事の説明を読んでみても、「その神社で」茅の輪くぐりがいつ始まったかなんてことはほとんど書かれていない。知らなくて書いてないのか、知ってて書かないのか、それはわからないのだけれど、こんなことすら共有されていない研究の現状ってどうなのよと思わずにはいられなかった。

ところでこの神社には樹下社がある。「豊国社」である。


秀吉が晩年に作らせた大仏殿の脇に豊国神社が建立されたが、大坂の陣後、豊国神社は破壊される。しかしその祭神は、新日吉神社に密かに密かに祀られていた。それがこの樹下社である。なお明治になってから、豊臣秀吉が前代との比較で再評価され再び豊国神社が建立される。今の豊国神社はこうして再建された近代の神社である。

ここら辺はちょっと不勉強なんで、もう少しきちんと調べたいな。授業のネタにも使えそうだし。


この後大阪に向かう。この日の宿は十三。なかなかディープなところだったが、駅の脇の飲み屋とか、ちょっと行ってみたかったなあ。宿で締切仕事を片づけ、先に飲んでた人々と梅田で合流ししばし飲み、宿に帰投する。

翌日は朝から関西大学に向かう。思っていたよりもずいぶん大きなキャンパスだった。

午前中から午後まで報告4本を聞く。かつて調べたことのあるテーマだったり、今現在の研究テーマと関わりの深い報告だったりと、いろいろ興味深いものだった。

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報告を聞きながら、自分の仕事を早くまとめないといけないなという気になった。前日飲んでいる時にもそういう話になったんだが、自分の中で全体構成が固まるまで待ってても、その間に新しい研究が出てくるので、結局まとまることはない。変に理想主義的に全体構成をいじり直し続けるよりは、ある時期の成果として「えいやっ」と出してしまった方が、かえって先に進むことができる。そういう仕事のやり方が、今の僕にとっては必要なのかもしれない。

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ところで関西大学には、高松塚古墳壁画の展示施設がある。高松塚古墳など明日香村の考古調査に関西大学が深く関わってきたことから、こうした施設が作られているのだが、残念ながらこの日はやってなかった。


新幹線の時間の都合で学会の懇親会には出られず、大学近くの居酒屋で少しばかりビールを飲んで、新大阪駅へ。そして新幹線で帰京。もう少しゆっくりして、関西の人々との交流を深めたい思いもあったんだけれど、仕事がかなり立て込んでいる時期だけに、バタバタした感じの二日間で終わってしまった。講演会や大会の報告された方、関係者の方には感謝申し上げたい。