水戸黄門ストーリーの変遷

記事の主張とはあんまり関係ないんだが。

水戸黄門は体裁こそ時代劇だが、出てくるテーマは現代的である。庶民の価値観(勤勉であること)が、中間支配層に搾取されそうになるのだが最高権力者である水戸光圀は庶民の味方であるという神話的なストーリーが1969年以降延々と描かれる。ここにはアンビバレントな葛藤はなく、善か悪か判然としない登場人物は登場しない。

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以前、確か東野英治郎時代の水戸黄門の再放送を見ていてちょっと驚いたことがあった。どういうストーリーだったのかはもはや覚えていないのだが、ストーリーの中核が父と娘との情愛に焦点が絞られていて、親子が無事暮らせるような平穏な暮らしを取り戻すためにご老公ご一行が活躍するという話だった。

最近の水戸黄門、といってもずいぶん長いこと見ていないのだが、最近のストーリーの基本は、代官や家老などの不正の裏で圧政に苦しむ庶民という構図が描かれ、その不正を水戸黄門が裁いてめでたしめでたし、というものだ。悪役が必ずしも権力者ではなくやくざ者のような存在ても、社会的な不正という構図は覆らないと思う。

ところがその再放送では、社会的な不正を正すという場面が出てこない。当時の再放送を多く見たわけではないから、こういうストーリーはサンプルとしては少数派なのかもしれない。ただ、水戸黄門が当初からずっと同じ構図で物語が作られ続けてきたわけではないというのが、僕にとってはちょっとした衝撃だったのだ。

その時に思ったのは、もしかすると、水戸黄門の放映初期の頃は、必ずしも社会的不正を正すということが庶民のカタルシスにつながっていなかったのではないか、ということだった。ここら辺は、1960年代から70年代にかけての社会的な空気というものがどうだったのかということを実感的に知らないとどうにもならないんだが、もしかすると水戸黄門がああいう構図を描くことになるきっかけに、田中角栄ロッキード事件が関係しているのではないだろうか。そういう大きな社会的事件と社会の空気の変化が、現在見られるような水戸黄門像というものを生み出したのかもしれない。