出雲大社とその周辺(前編)。

サンライズ出雲は終点の出雲市まで乗車した。出雲大社が最初の目的地だったのである。終着の出雲市駅一畑電鉄に乗り換え、出雲大社を目指す。

電鉄出雲市駅は高架化されていて近代的な施設だった。前に来たっけなあ?


高架は駅だけで、すぐに線路は地上に降り、その後はすっかりローカル線の雰囲気漂う沿線を走る。途中で出雲大社前駅行きに乗り換える。


出雲大社前駅は洋風のクラシカルな雰囲気。旧国鉄の大社駅とは対照的だ。


駅のロッカーに荷物を預け、レンタサイクルを借りる。自転車で神社と博物館、そして門前町を見てやろうという算段だ。しかしあまり雲行きがよろしくない。やや不安要因を抱えながらも、えいやっと出発。

まず目に入ったのが、参道の鳥居の前にある比較的大きな和風の旅館建築。

まったく知らなかったのだが、実はこれ、今週終わった朝ドラ「だんだん」のテーマ曲を歌う竹内まりやの実家だったようだ。思わぬところでタイムリーなネタを仕込んでいたとはっ。


大きな鳥居の写真を撮ったところで、参道を避け境内の東にそれる。


自転車では参道を通れないというのもあるが、かつて来た時にこの参道が結構長かった記憶があるので、そういうところはまあいいやというのもある(笑) 東側には、2007年3月にオープンした島根県立古代出雲歴史博物館が建っているが、それは神社の後で。

東脇から境内に入ると、けっこうすぐに手水屋の辺りにたどり着く。僕の場合、時間がだいぶ限られている中さっさと本殿までたどり着きたかったのでこういうルートをとったけれど、ふつうに観光ないし参拝、見学する人は正面から参道を進んだ方が雰囲気もあっていいように思う。

その後銅鳥居をくぐる。この鳥居、なんか観光ガイドの人が触るといいとか何とか言っていたけれど、そういうのはよく知りません。が、寄進者はなかなか興味深い。


「大江綱廣朝臣」、すなわち長州藩三代藩主の毛利綱広である。

この銅鳥居をくぐると、拝殿が目の前に現れる。

結構堂々とした建物なのだが、実はこれ、戦後の建物。江戸期の建築である本殿はこの裏手にある。現在本殿は工事中で、ご神体はこの拝殿に遷されている。昨夏に遷座が行われた後、本殿の特別公開をやっていた。

実は現在の出雲大社、当時は杵築社と呼んでいたのだが、この神社は寛文年間に大規模な造替が行われた。この際、垂加神道の影響によって仏教色を排除した形で建て替えられ、現在の社殿もこの時の造体を踏襲する形で延享元年(1744)に建てられている。


ところでこの本殿前から、2000年に巨大な柱や柱穴が発掘された。三本の巨大な柱を束ねて一本の柱にしたもので、その柱跡を示す印が地面に付されているのが、写真でもわかるだろう。手前が宇豆柱、左奥のが心御柱である。


また発掘された柱は現在、さっき脇を通った歴博に展示されている。先にその写真をば。


平安期の『口遊(くちずさみ)』に「雲太」=出雲大社本殿、「和二」=東大寺大仏殿、「京三」=平安京大極殿と評された、幻の巨大建造物とされてきた出雲大社本殿の姿が垣間見えた瞬間だった。

というような感じで紹介されている杵築社本殿だが、実際に発掘されたのは鎌倉時代の宝治二年(1248)に行われた遷宮の際建てられた本殿遺構であると考えられている。つまりこの巨大な柱は鎌倉時代の造営になるもので、中世の地方大社の造営実態を示す有力な資料でもあるのだが、もっぱら古代との連続性ばかりが強調され、中世の話はあまり触れられていないところが悲しい…

ちなみに、この時の造営までは主に国衙と神社の力によって行われていたのだが、こののち造営を主導していくのは幕府となり、国造も神魂社社領の地頭に補任されて御家人となる。そういう意味では、中世杵築社にとってのターニングポイントとなった造営だとも言えるだろう。

この後、境内にある宝物館を見学する。この宝物館、実はあんまり期待していなかったのだが、後醍醐天皇の自筆とされる元弘三年(1333)3月17日の綸旨などを見ることができ、結構じっくりと見学した。なおここには、戦後の拝殿造営の際に発掘された、室町期の柱が展示されている。これは今まで全然知らなかった情報だったし、あまり知られてもいない情報だと思うので、そういう発掘があったのだということは参考になった。やっぱり現地には行ってみるもんだなあ。

宝物館を出た後、ふと境内の建物の入口にある看板が目に留まった。それがこれ。

ね、「年貢」ですか……

どうやらこれ、この地方の人々は家を建てると出雲大社のお札かなんかをもらって「出雲屋敷」ということにして、その代わりに毎年「年貢」として少々の奉納物を納める習わしがあるみたい。その奉納物のことを年貢というらしい。

再び境内の東側に戻る。そこの目の前が、実は北島家の門とつながっているのだ。


北島家は、出雲国造の末裔である両国造家の一つで、南北朝期の貞孝を家祖とし、もう一つの国造家である千家家とともに出雲国造職を継承した。明治以降、北島家は出雲教の、千家家は出雲大社教の、それぞれ主宰者となり、現在では両者は独立した宗教法人となっている。なお現在の出雲大社宮司は千家家であり、信者数も出雲大社教の方が優勢のようだ。なお、北島国造館は神社の東側、もう一つの千家国造館は神社の西側に位置している。これは北島国造館の大門。


北島国造館の周辺は社家町としての景観が残っているのだが、この日はあいにく工事中。あまりきちんと屋敷地を見学することもできないので、すぐに博物館の方に向かった。

続く。