史料批判。

研究会の帰りに本屋に立ち寄った時、ふと興味を引かれる本の表紙が目に飛び込んできた。お、と思い手に取ってみた。パラパラと眺めているうち、ほんとに偶然に、あるページに目がとまった。

その本は歴史系の内容で、史料を引用しながら文章が展開していっているわけなのだが、そこに引かれている史料が、立ち読みでパラパラとめくっていてもはっきりわかるほどの偽文書だった。シロかクロかということで言えば真っくろくろ助。少なくとも同時代史料としての価値は皆無だ。さて、この史料をどうやって料理しているのかお手並み拝見と思い次のページをめくっても、史料の性格が全く検討されてない。

歴史学では、史料に書いてある中身を検討する前段階として、まずはそれがどんな由来でどのような属性を持つ史料なのかという、史料の性格の検討が必須である。それを史料批判という。史料批判によっては、同時代史料としてはダメでも、その中身についてはそれなりに史実を反映しているという結論を導き出すこともできる。

だがそのページでは、史料批判がほとんどなく、ほぼ丸飲みで信頼しちゃっていた。しかも同じような史料がご丁寧に2点も提示されていて、1点はかろうじて留保を付けているのだが、もう1点はまるっきり同時代史料として扱っちゃっていた。歴史叙述としては全然ダメだ。さすがにこれは…と絶句してしまった。

素人さんが自費出版で出したものだったり、あるいはこのジャンルに専門性を持たない人間、例えばジャーナリストとかの書いた文章なら、間違いは間違いだけれど、間違いがあろうがなかろうが論旨にさほど影響はないだろうから、目をつぶってもいいかもしれない。けれどもその本は、それなりに知られた出版社からそれなりに知られたシリーズで出された、いちおう歴史系の専門性を持った本として出版されている。著者はどうやら歴史学プロパーではないようだが、それでも人文系の研究者のようだ。そういう人が、こんな初歩的なレベルのミスに気づかないまま堂々と本なんか出しちゃっていいものだろうかと思わずにはいられなかった。