生き延びたことへの罪悪感。

「あなたたちの尊い犠牲の上に」 - Apes! Not Monkeys! はてな別館

ここでApeman氏が言及する「尊い犠牲」という言い回しは、確かにいろんな意味で自己正当化に用いられてきた言葉だろうと思う。特に戦場に出ることもなく敗戦責任をとることもなくのうのうと戦後政界に進出しあるいは実業界で成功した旧軍将校らが「尊い犠牲」だなんて言ってのけるのに対して、強烈な違和感を覚えるのはむしろ当たり前だろう。

ただ、ほんとうにそれだけなのかというところがちょっと気になった。

NHKの「証言記録 兵士たちの戦争」のシリーズを何本か見ていて特に印象に残ったのは、当時兵士ないしは下士官だったような人々の多くが、過酷な戦場で自分だけが生き延びて帰還したことに対して、強烈な後ろめたさ、申しわけなさ、あるいは罪悪感とでもいったような感情を抱いているということだった。

戦場が過酷で恐ろしいものだったということは、当時の映像や写真などからもうかがうことができる。けれども、その地から生きて帰ってきた人が、その時何を思い、そして今、何を思っているのか。そのことは、話を聞かなければわからない。そして話を聞くなかで改めて認識させられるのは、今生きているこの人の背後には、過酷な戦場で散った多くの物言わぬ兵士たちがいること。そしてその兵士たちは、彼にとっては「仲間」だということだ。

戦場で偶然に生き残ることができた人の言う「尊い犠牲」という言葉の背後には、自分自身が生き延びたことへの強烈な罪悪感があるような気がしてならない。彼らにとっての靖国神社は、生き延びてしまったという罪悪感をすこしでも宥める存在なのだろう。戦場に赴き戦友を失った兵士のための宗教施設としての存在を、僕は否定する気はない。戦後の靖国神社は、本来このような人々のためにこそ、ひっそりと存続すべきだった。もちろん、こうした罪悪感を彼らが感じなければならない原因に「お国のために死ね」といった当時の軍隊教育があり、こうした教育があったからこそ、元兵士たちは兵士でなくなった後も強烈な罪悪感を抱き続けたままだったのだろう。

それなのに、こうした罪悪感を微塵も感じていない連中が、戦前・戦中の自己の行動、政府や軍中枢部の行動を正当化するために「尊い犠牲」を口にする。そして靖国神社は、元兵士たちの罪悪感を国家への忠誠にすり替えていこうとし、あまつさえ仲間を無駄死に追いやった愚劣な戦争指導を正当化しようとする。

靖国神社に将校のコスプレをして参拝する戦後生まれの人々は、何百万という兵士たちのことを、生き残りながらも罪悪感を抱き続けている人々を、そして敗戦の責任というものを、どう考えているのだろうか。