消えた原爆遺構―旧浦上天主堂の廃墟をめぐって

週刊朝日の今週号(8月17日号)に、「消えたもうひとつの原爆ドーム浦上天主堂廃墟はなぜ壊されたのか」という特集記事があった。

もともと浦上地区は隠れキリシタンがいた地域で、幕末には信徒発見のきっかけとなった地域である。明治に入ってから、浦上地区の禁教の舞台であった庄屋屋敷跡を買い取り教会としたのが浦上天主堂だった。貧しい信徒らが少しずつ寄進をし、約30年を掛けてようやく天主堂が完成した。だが浦上地区の真上に落とされた原爆によって、多くの信徒が亡くなるとともに、煉瓦造りの天主堂も廃墟と化した。

この記事では、そうした経緯をもつ浦上天主堂がなぜ原爆遺構として保存されることなく撤去されたのかを取り上げている。その中で記事が注目しているのは、アメリカ・セントポール市との姉妹都市提携。当時の市長は保存に積極的立場であったのが、渡米後には撤去派となる。そのきっかけが、姉妹都市提携ではないかというのが記事の主張だ。すなわち、市長の諮問機関において天主堂保存の結論が何度も出されていたにもかかわらず市長が撤去の意向に傾いたのは、日本初の海外との姉妹都市提携であったこの提携を「エサ」に、長崎における原爆の痕跡を消すような圧力や説得がアメリカ側からあったのではないか、という話だ。

記事も興味深かったが*1、印象的だったのは、当時天主堂廃墟の保存を強く主張していた市議会議員の「もし今、あれが残ってればまちがいなく世界遺産ですよ。」という言葉だった。確かに、西洋世界がもたらしたキリスト教とその後の弾圧、信徒発見、そして同じキリスト教国であるアメリカによる破壊、こうした数百年にわたる歴史を象徴する遺跡など、そうそうあるわけではない。

西洋と宗教的価値観を等しくするはずのこの教会を破壊し、そこでミサを行っていたキリスト教信者らを一瞬のうちに葬り去ったのが原爆であることを、この教会の廃墟は知らしめるはずであった。旧浦上天主堂跡が被爆遺構として保存され、全世界に原爆の残虐さを広く伝えていくことができていれば、アメリカにおける「原爆容認」論への強烈なアンチテーゼとなりえていたかもしれない。

そういう意味でも、何が歴史的に価値あるものなのかということに僕たちは慎重であらねばならない、と感じる。

*1:ただ直接的な圧力や説得があったのかどうかについては、もう少し材料がないと踏み込んだ結論を出すのは難しいだろうが