小代氏と肥後国

武蔵武士の続き。

関越自動車道の高坂SAの辺り*1は、中世には小代氏の拠点となった地である。小代氏は児玉党で、鎌倉御家人であった。蒙古襲来に際し、小代氏は異国警固のため、所領であった肥後国野原荘に下向を命じられた。高坂の地には、弘安4年(1281)の板碑も残る。のちに小代氏は肥後の地で有力国人に成長する。

野原荘は、もともと宇佐弥勒寺領であった。弥勒寺検校職を兼務して弥勒寺領を管領していた石清水八幡宮寺検校の祐清(のち石清水社務家の一つである善法寺坊家の祖)は、娘の日光姫に野原荘を譲与した。だが日光姫はのちに宗清(同じく社務家の一つである田中坊家)に嫁したため、野原荘も弥勒寺検校職を相承する善法寺坊家の管領を離れ、田中坊家の所有に帰した。もともと宇佐弥勒寺領であったのに弥勒寺検校職の管轄下にないのは、こうした複雑な譲与関係が背景にある。

野原荘の惣地頭職は、もともと大江広元の子である毛利季光が有していたが、宝治合戦により没収され、小代氏に与えられた。文応元年(1260)に関東下知状により地頭方と領家方とに下地中分が認められた。なお祭事簿では下地中分を弘長2年のこととする。

ところで野原荘は、建長4年(1252)から野原八幡宮の節頭行事の頭人を記した祭事簿が書き継がれていることでも知られる。野原荘は、肥後国の一荘園としてだけでなく、中世村落の様子が多少ではあるものの垣間見えること、また東国からの西遷御家人が入部した所領であるということのように、東と西とを関連づけて歴史を辿ることのできる、なかなか興味深い土地である。


したがって高坂もまた、そうした小代氏の動向とあわせて考えてみると、また面白くなってくる。今度は、高坂の小代氏の遺跡にも足を運んでみたいな。

*1:正確にはそれより東側の辺りだけれど