図書館の公共性をめぐる論争と経済学。

最近、よくはてなブックマークでブックマークされた記事を見ている。2chが極論や言いっぱなしの無責任な話である割合が多いのに対して、はてブのコメントはずいぶんまともな気がする。いろいろとはてブの仕組み的なものもあるんだろうけど。

まあそれはいいとして、ちょっと気になった記事が一つ。図書館の公共性をめぐる論争だ。

ほどよい司書さんによる図書館の「民営化」という馬鹿馬鹿しさという記事に対し、プリオンさんが「図書館の公共性という馬鹿馬鹿しさ」という批判記事を書き、それに対して司書さんが反論プリオンさんが再批判、司書さんがさらに反論という形で議論を展開している。

僕の印象としては、プリオンさんの批判は、全体の論理構成としては揚げ足取りに近いもので、司書さんの主張により説得力を感じる。プリオンさんの議論が揚げ足取りだというのは、たとえば図書館の所得再配分機能をめぐる次のような論述にみられる。

図書館が所得の再配分機能を果たしているというのは本当だろうか?

知的労働が嫌い・苦手な人は低所得になりやすいので、読書をする比率は低所得より高所得が多くても不自然ではない。とすると図書館は所得再配分どころか逆に広げている可能性さえある。図書館の予算はなくして貧乏人に現金でも配るなり、消費税引き下げ課税最低限引き上げでもするほうがはるかにいいだろう。

同様のことは高等教育にも言える。低所得低学歴の親ほど子供を進学させようとしない傾向があるので高等教育に税金をつぎ込んでも貧乏人より金持ちの負担が減りやすいわけだ。

図書館の所得再配分機能は、あくまで機会均等を保障するという理念に基づいたものであるはずなのに、プリオンさんは個々人の性向の問題という現象面だけからその機能の有効性を否定し現金ばらまきなどを行えばよいのだと極論を主張、結局機会均等という理念そのものを否定してしまうという誤謬に陥ってしまっている。

ただ、プリオンさんの批判のスタンス自体は一貫したネオリベ的なものであり、そこには一貫性がある。こうしたネオリベ的主張の「偏り」については、すでに過疎地に対する考え方について言及した部分でも触れた。http://d.hatena.ne.jp/usataro/20060408#p2

僕の考えは、司書さんの立場に近い。まあ、SUMITAさんが述べているように、福祉に関する部分の言及など、司書さんの議論に?と思うところもある。だが、市民が政治や社会に参加するための情報を提供する場として、また自由競争社会における機会均等の理念を支えるための重要な手段として、公共図書館の存在はますます重要であると考える。公共図書館の運営を民営化するのか、あるいは公共図書館そのものを廃止して民間に委ねるのかといった違いによっては僕の意見も微妙に異なってくるが、少なくともプリオンさんの言っているのは後者だ。そしてそれは経済原理のみに左右されるべきではない情報へのアプローチを経済原理に委ねてしまうという意味で、情報へのアプローチを偏ったものにしてしまうことは明らかだ。

しかし、経済原理に左右されるべきではない教育の機会均等の理念を無視して、経済原理からのみ検討して図書館の公共性を否定する主張が散見される。solidarnoscさんは二人の論争について経済学的に見た政府の役割という観点から「図書館に税金を使うべきか」というタイトルで「使うべきでない」という主張を展開している。solidarnoscさんはぱらっと見る限り必ずしもネオリベ的考えを持っている方ではないようだが、図書館の役割として「価値観の実現」ということだけしか議論の対象にしておらず、教育の機会均等を実現する手段としての図書館の役割についてはまったく触れていない。ちなみに、司書という職にあるから図書館の公共性を主張するのだという指摘や司書はいらないという主張は、図書館司書についてあまりに無知なのではないかと思う。

話を戻す。たとえば、首都圏をはじめとする大都市圏のような文化的資本蓄積の豊かな地域であれば、必ずしも公共図書館に行かなくとも巨大な本屋はいくつもあるし、大きな博物館、美術館もあって、さまざまな文化に触れることができる。もちろん、入手できる文化というのは狭義の意味での文化に限らず、法律・経済・社会・科学技術をはじめとするさまざまな情報を含めたものである。しかしそういった文化資本の蓄積の非常に薄い地域では、そうした文化に触れる手段はきわめて限定される。そうした地域に住む住民は、そもそも最初から情報に触れる機会を持ちえず、したがって自己実現の手段を獲得することもできず、経済的に低い地位にとどまったままとなる。

わかりやすいたとえとして都市と地方の格差で話をしたけれど、都市内部にあっても低所得者層が情報にアクセスする手段を公的に保障する機能としてみた時、公共図書館を維持していくことは行政による情報アクセスの機会を保障する手段として重要なことだと考える。もちろん、先述のように民主主義社会において市民の政治や社会参加をサポートする役割というのも重要で、これも公共図書館のもつ重要な機能だ。

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どうもこういう経済学的な観点からの議論をみていて感じるのは、「すべての人が自由競争の舞台に立っている」ということを何の検討もなしに前提としてしまって効率性や経済合理性の話をする議論が少なからずみられるということ。自由競争は経済学的な議論の前提になっているが、自由競争の理念はあくまで「各人に機会が均等に与えられている」という理念によって担保されているに過ぎず、機会が均等でなければ「持ってる者勝ち」「そこにいる者勝ち」というきわめて不平等なことになるだけでなく、そもそも「自由」でないのだから「自由」競争という理念自体成立しえない。

ネオリベ論者が結果平等を嫌うのはその主張の本質からしてもそうだが、機会平等に関してもとても本気で考えてるとは思えない。こないだの過疎地消滅促進論でも、どこに生まれて育つのかは「自由」ではないにもかかわらず、競争に不利な地域の住民に移住を強いるような「上からの効率性」を平気で口にするのは、機会平等への配慮が明らかに欠落している。そればかりか、経済学的な観点からの議論でも、機会均等・機会平等といったことをすっかり忘れてしまっていることが少なからずあるように思えてならない。

僕は経済学は素人だけれど、経済学的な議論が成立する前提、また成立させるための条件といったものを、経済学ではどのようにとらえているのだろうか。単にそういう論者が目立つというだけなのか、それとも、経済学に内在する問題点なのか。