代理母問題。

この問題はなんかタレント個人の問題としてしか取り上げられていないようだけれど、こんなのが認められるなんて、絶対おかしいと僕は思う。望んでいるのに子どもができないこと自体はお気の毒なことだし、いろいろと手を尽くしたい気持ちもわからないではない。けれども、だったら自分たちの「遺伝子」を他人に植え付けて子どもを産ませていいのか。

夫と妻以外の女性との間にできた子どもを自分たちの子どもとして引き取る、というのならまだ理解できる。産んだ側の女性は明らかに「子どもを奪われている」のだから、当然その女性は身体的にも精神的にも傷つくが、しかし一方で、夫や妻の側にもその女性を傷つけたという自覚があるはずだ。こういうことは無いに越したことはないし極論だけれども、産んだ女性を傷つけたという点で、その女性に対する人間としての敬意は(逆説的な意味において)払われている。

しかし、「代理」にされてしまった母に、そのような人間的敬意が払われるのだろうか。結局は妊娠・出産料という形で金銭的な報酬が支払われるだけで、終わってしまうのではないか。

さらに、子どもが産まれるということについて、そこで遺伝子が介在する余地をあまりに過大評価しすぎている問題にも繋がってくるように思う。夫と妻との遺伝子によって受精するということは、確かに出産にとって重要なことではあるけれども、受精すれば勝手に子どもができるわけではない。そういう意味では、妊娠・出産という一連のプロセスにおいて、受精だけを「真実の親」の根拠であるかの如くクローズアップするのは、現代という時代におけるある一つの社会的な解釈でしかない。代理母出産というのは、そういう遺伝子的な真実性をお金で買う行為だと思う。では、現実に「お腹を痛める」という身体的な感覚はいったいどうなるのか。産んだ女性が子どもの依頼主への引き渡しを拒否しているケースなどは、女性にとって「お腹を痛めた」という感覚がいかに重要であるかを示しているように思う。

結局代理母出産という行為は、産ませる側の女性の権力・経済力によって、産む側・産んだ側の女性における人格としての尊厳や身体的な感覚を否定する行為であると思う。そして、代理母という考え方の背景にある遺伝子至上主義に、僕はきわめていびつなものを感じてしまう。