教育とイデオロギーと。

この話も、もう最後かなと思うんだけれど、お二方にちょっとだけコメントを。

まずかわとさんの「歴史的悲劇のエネルギー源」。身近な権威的存在としての「教師」への反感というのは、要素としてあるような気はする。で、その理由については、ここのコメント覧に書いたように、戦後民主主義の「体制化」が大きいのかなと思う。ただ、それが自ら選び取った限りにおいてならば、思想の方向性はともあれ、自分で考えようとしているということなので、考え方には賛同しないけれども考え自体は尊重すべきだと思っている。まあ、そんな気骨のあるヤツなら、左右とか関係なく見どころのあるヤツだと思うけど。

ただ、それがより反権力的になるのではなくて、むしろ国家権力に迎合する方向に動くのは、やっぱり別のことを考える必要があるように思う。最近僕が感じてるのは、なんとなく教師への反発、といった以上に、いわゆる「真面目ないい子」が、無自覚で素朴に保守的なことを書いたりする、その怖さだ。大衆、と言ってしまうと「前衛」を想定しなくてはならなさそうでちょとアレなんだけれど、けれども普通の人たちの思考の軸が右に寄ってきているのはおそらくまちがいない。そうした右傾化を「大衆」の外側からではなく、内在的に批判していく視座が必要なんだろう。

そういう意味では、80年代ごろまでは活躍していた「戦争を知る世代」が徐々に退場し、よくも悪くも、戦争への実感を失っていることが、社会全体の右傾化に一役買っているのかもしれないな。天皇制へのシンパシー自体は、さほど増えているようにも思えないわけだから。

【な】さんは、虚構論についての再論で、「日本」を思想的構築物ととらえる点については、別に疑問に思うようなところはない。ただ、僕はやっぱり歴史的な視点で考えようとするので、国家や神道が思想的構築物であるという話と、現実の神社の光景を「実態として古代から存在してきた」とすることの虚構とでは、やはり意味合いが異なるように思う。

ちなみに写真の神社(戸隠奥社)、僕は行ったことないんです。中社までならあるんですけどね。